阿史那皇后

阿史那皇后

  阿史那皇后(あしな)という名で知られる、北周の武帝の皇后
 遊牧騎馬民族の突厥の最盛期を築いた突厥帝国三代目の可汗である木汗可汗の娘。
 勢力拡張をはかる王朝なら必ず行ったのは勿論近隣諸国との外交政策。
 ハプスブルグではないけれど、この可汗も「汝、婚姻せよ」ということで、娘を当時西魏の実力者である宇文泰に嫁がせて足元固めをしようとしました。
 政略結婚ですから年齢なんか関係ないと思うけれど、娘との歳の差は40歳以上。自分より年上だったかもしれない。ちょっとおとーさんひどいよね。この話は宇文泰の死でうやむやになりました。
 その後、それぞれ簒奪王朝が出来て、西魏は北周に、東魏は北斉になり、お互いの王朝はライバルなので、どっちも北方の実力者突厥の力を借りたいので、北斉は孝昭帝が結婚の申し込みをし、北周は宇文泰の息子の武帝が申し込んできたんですね。
 しかし、木汗可汗は、今は北斉に気持ちが傾いていたんです。北周の皇帝は傀儡ですから。
 ですが、熱心なのは北周側で、使節がしつこい。その時、たまたま落雷がおこり、大風が吹いて可汗の穹廬が吹っ飛ばされた。 いくら移動家屋のゲルとはいえ、多分、そんじょそこらのテントごときものではないはず。何しろ突厥帝国の大可汗の宮殿ですから。びびった可汗は、これは神のお告げに違いないということで、娘を北周の武帝に嫁がせたのです。
 こうして彼女は北周の都長安に輿入れし、皇后に立てられます。
 しかし、夫になった皇帝にはドン・ペドロのマリアみたいな愛妾、つまり10代から連れ添い、子供も何人かいる李夫人が傍らにいたので、皇后は飾りだったのでしょうね。
 あまり顧みられなかったのかも。まあ、嫌われて幽閉されるほどではなかったでしょうが。
 彼女は、子供もいないまま27歳で未亡人となり、その後、政変がおこり、3年後には北周そのものが滅亡。
 長安は隋の都となりました。そしてその2年後には彼女はひっそりと亡くなります。
 なんとなく影も薄く、幸も薄い女性ですが、隋の文帝の独孤皇后(とっても強烈な女性です)が彼女を憐れんで、法要を行ったそうです。
 武帝の陵に合葬したのも独孤皇后の意図かもしれません。「あんたは正妻なんだから、同じ家に住む資格があるの。堂々としてりゃあいいのよ。」なんて言ったかも。
 突厥帝国の姫ですから当然イメージは馬!ですので、こんな風にしてみました
 初唐のものではないでしょうが鳥の冠をかぶった騎馬俑があったので、皇后の宝冠風に・・。
 父の木汗可汗は青い目をしていたそうですので、彼女も青い目だったかも・・?
2014-03-18
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