木梨軽皇子と軽大郎女

今年は、古事記編纂1300年ということですが、まあ、私もしょうもない絵を描きましたけれど、なんか行事やってるんでしょうかねえ。寒いのでとても、奈良とか京都(ブルブル)方面には足がむきません。
そこで?古事記の三大悲劇(誰が言ってるんだ?)の一つとしては、この木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)と同母姉妹の軽大郎女(かるのおおいらつめ)の物語を取り上げましょう。
この二人は、允恭天皇の子供たちで、同腹の兄妹ながら、恋愛関係に陥ったとして、忌み嫌われ、軽皇子は、「太子」の地位にあったのに、位を剥奪されて、弟穴穂皇子と争い、敗れたということになっています。
兄と関係を持ってしまった妹は、兄が流罪にされたのちに、配流地まで追いかけて行き、そこで二人で心中した・・という伝説が歌物語として残されています。
しかし、また、妹のほうが先に流罪となり、後に兄は弟と争って敗れた・・というお話もあります(ちなみに、勝利した弟は、のちに、眉輪王に殺された安康天皇です)。
どちらにしても「悲劇」ですが、結論としては、軽皇子が、父の後継者としてはじかれ、それを不満として弟と争い、敗れて死んだというのが大筋でしょうね。それに、妹との恋愛がからむ。
一方、妹の軽大郎女の側からすれば、兄と関係した時点で・・つまり恋の始まりから、もうすべてを捨てていて、後がありません。 兄が空しい?「敗者復活戦」としての反乱をする最後の手段がのこされていたとしても、彼女は、もし一説のように、斎宮のような祭祀女王の立場だとしたら、恋愛そのものがすでに資格喪失なのですから、並大抵の覚悟ではないような気がします。
たとえ、兄が、ちょっと後悔したとしても、彼女には後悔なんてありませんから、熱意と覚悟は勝ったのではないか・・と。
2012-02-10