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斧定九郎

斧定九郎

 歌舞伎のキャラクターは、さまざまな種類が固定化していますが、「悪役」についてもパターンがあります。
 そういった悪役で、印象的なのが斧定九郎です。
 忠臣蔵の五段目だけに登場し、舞台にいる時間はとても少なくて、しかもセリフはたった一言、という役なのですが、「悪」の新しい形を作り出したとも言われる役どころ。
 斧定九郎という人物は、設定だと、赤穂の重臣ながら吉良方と通じていた悪家老の息子ということになっています。一応は「ええしの子」なんですね。
 しかし、日ごろの行いの悪さから、実家から勘当された不良息子で、無頼の身に落ちて金に困り、夜の闇にまぎれて、街道筋で行きずりの老人を殺して財布を奪う。まあ、早い話が辻斬りです。
 で、奪ったサイフの中味を確かめていたところ、猪と間違われて鉄砲で撃たれて死ぬ。なんてマヌケで不運な悪人でしょう。
 老人は、赤穂浪士の早野勘平の義父で、婿のためにお金を調達してきたところで、鉄砲を撃ったのは勘平で、義父を殺したと勘違いし、などなどややこしい取り違え問題が起こり、勘平は切腹するという筋書きにつながるのですが、そういうのはおいといて、ただの「山賊」であった定九郎が、いわゆる「色悪」(美形の悪役)の元祖として定着するのは、その演出に工夫があったからだそうです。
 ドテラを着てヒゲぼうぼうの山賊姿ではなく、乱れた髪に、黒紋付の着流し、大小をさして破れ傘(雨が降る夜なのです!)で登場する、いわば、悪役ながら、もとは上流の子息。貴種流離譚の一種の変形です。
 しかも、色彩的には、暗闇に現れる白い顔色黒い単衣の着物を素肌に着るというモノトーン。そして鉄砲に撃たれて、口から血を吐きながら倒れる・・・この赤い血の色がポイントの映像美。これで人気の役どころになったのですね。
 この黒紋付を着流した零落の「悪役」浪人スタイルは、四谷怪談の民谷伊右衛門に連なりますが、よりシンプルなのが定九郎でしょう。ただの金に困った不良ですから。彼の紋所は斧という姓から、斧のぶっちがい紋です。
2010-06-28

スイス傭兵

スイス傭兵

 16世紀の西洋の男性服飾の中で、きわめて特異な装飾デザインが、スラッシュです。
 上衣の布を、ハサミで切り込みを入れる、あるいは焼いた鉄棒で穴を開け、その穴から、下衣の布を見せるファッションです。
 もともとは、肩や、膝などが動きやすいように、切込みを入れるという実用であったそうです。しかし、一旦流行り始めると、あちこちに過剰なまでの切込みを入れ、下に着ているブラウスを上着の穴から引っ張り出して、総絞り染めの製作工程か・・みたいなのを全身に出すという、いささか信じられないような感じになります。こういうの・・カッコいいかな?
 伝説によれば、このファッションを始めたのはスイス傭兵だそうです。
 1477年にブルゴーニュ公のシャルル豪胆王が、フランス王に雇われたスイス傭兵に破れました。勝ったスイス人たちは、豪華な布地を略奪しては、自分たちのボロ服の上に縫い付けていたのが、なんとも奇妙で華やかなファッションに見えた。
 これがカッコいい!・・などとマネしたのがドイツ人の傭兵だそうで、お国に持って帰って、この戦場ファッションが、別に破れていない布までも切り刻んで、隙間からシャツを覗かせるスタイルを産んだとか。
 伊達男たちは、嬉しがって上等の布地を切ってスラッシュだらけのファッションを見せびらかしていましたが、女性には、袖ぐらいしか浸透しなかったようです。スカートをスラッシュだらけにしたって優雅じゃないですもんねえ。
 上着から靴下まで切り込みの過剰な、全身スラッシュは、北方系のデザインで、服飾的に洗練されていたイタリアやスペインには、さほど流行しなかったそうですが・・やはり、ヘンでしょう・・。
 フランスに雇われていた本家のスイス傭兵たちは、派手な色彩のスラッシュや、巨大な羽飾りの帽子で、飾り立てていたようです。 似たようなものといったら、今尚、バチカンの衛兵は派手な色違いの服を着ていますね。袖やズボンはスラッシュだし・・。
2010-06-26

ヴェネツィアの金髪美人

ヴェネツィアの金髪美人

 私の家の近所には若い人が多いのですが、ぞろぞろ歩く女性達は、夏になって、まるでエンパイアースタイルのような長いスカートをはいている人たちも目立つようになりましたが、そろいもそろって、髪を長く垂らし(エクステもありでしょうが)、カラーリングをしていない長髪はめずらしいような感じです。
 日本人ですから、浅黒い肌に、昔は「茶髪」などと言われた明るい髪色をしています。
 こういうのは、ホンモノの金髪ではないので、「ヴェネツィア金髪」というものに似ているのではないでしょうか。
 16世紀頃になると、女性の髪形も、中世のようにかぶりものオンリーではなく、結い上げて宝石を飾ったりして、変化に富んでくるので、地毛の色もアクセントになります。
 イタリアの女性は、黒髪や、濃い色の人が多かったので、人工的に金髪を作るために、泥や脱色剤などを髪に塗り、炎天下に日光にさらして脱色したそうです。これらのニセ金髪は、ホンモノのゲルマン系の薄い金髪と違って、やや赤みがかった独特の色になるので、これまた色っぽいともてはやされたそうです。
 しかし、どのくらいの時間晒せば、髪の色が抜けるのでしょう。私などは、想像しただけで暑くて、アタマがぼ~っとしそうで、ごめんこうむりますが、いつの時代にも、女性の美の追求はいかなる努力も惜しまないのでしょうね。
 オーギュスト・ラシネの服飾シリーズ、マール文庫に載っていた、ヴェネツィア金髪を作る女性です。
 汚れてもよいためか、汗をかくためか、ラフな部屋着を着て、日よけのために、シャンプーハットのような、つばだけの麦わら帽子をかぶり、ベランダで髪を晒しています。靴下様のものを履いているのは、これもまた日焼け防止でしょう。髪は明るい色になったものの、他の部分が日焼けしてしまっては台無しですものね。 
2010-06-21

観阿弥

観阿弥

 能の大成者が世阿弥だとすれば、創始者といってもよいのが、父親の観阿弥です。
 芸能好きの足利義満に親子で認められたところから、中央で羽振りをきかし、人気芸能人として「一流」になったのですが、著作を残している世阿弥と違って、自身の書いた文献がないので伝説につつまれています。
 出身は伊賀であり、父は服部氏、母は楠木正成の姉にあたる・・とか。
 まあ・・なんとはなく伊賀の山中で謎めいていて、こういうのもいいかも。伊賀の服部といえば、服部半蔵が思い出され、則忍者。また楠木正成といえば、もうなんだか神算鬼謀の軍師。
 その子孫が芸能人として、都の将軍に取り入り・・で、まあ、役者がスパイ・・なんて面白すぎるので、ドラマにしたい人は一杯いるでしょうね。
 そんなのは、まあおいといて、観阿弥の作とされるのが「自然居士」ですが、もともと遊興芸能づくしのような、実在の円熟芸人自然居士を、思い切って少年に設定してしまい、若いアイドルによるバラエティショーみたいにしたのが観阿弥。
 しかもその少年役を、すでに40すぎた観阿弥が自ら演じて、16、7才に見えたということですから、二重にも三重にもすごい舞台人ですね。大柄だったのに、女性をやると、可憐に見えたともいわれています。
 ということで、役に没頭しようとする観阿弥。40歳なのに、17歳になりつつあるところ・・・?のつもりです。 
2010-06-16

キルヒャー

キルヒャー

 「遅れてきたルネッサンス人」と言われるのがアタナシウス・キルヒャーです。
 しかし、彼こそ万能の天才。彼の肩書きを何とすればいいのでしょう。
 科学者、天文学者、地理学者、考古学者、発明家、そういったジャンル別の範疇に治まらないのが彼の天才的な頭脳です。
 望遠鏡で観測をして、太陽の黒点を発見したというのは、まあ科学者的ではありますが、ペストの感染を菌によるものと推測したり、コプト文字から象形文字を解読しようとしたり、音楽と数学を結びつけようとしたり。
 彼の発明になる数々の機械類がわけがわからん物だというのは、ダヴィンチと同じなのですが、キルヒャーが、ダ・ヴィンチに比べて「バカにされている」気がするのは、あまりに広範囲で精力的な彼の空想力のせいでしょうね(それに、まだロゼッタ・ストーンがなかった!)。
 奇人変人だとか、非科学妄想の天才とか、まあなんとでも言えるでしょうが、彼の著作の図版を見れば、もう「なんじゃこりゃ~!」な図像が一杯で、珍奇なものが大好きな者には、とても刺激的で楽しすぎる♪
 彼自身がダヴィンチのように「天才的な」絵を描いたわけではないので、彼の想像力においつかない、依頼された画家たちが、珍妙な絵を描いたところが、これまたなんとも面白いのですね。
 有名なのは中国の仏像の絵ですが、勿論日本の仏像や、ポタラ宮(これはややまじめ)の絵もあります。
 しかし、彼が多分最も力を入れていたのはエジプトで、全ての文明がエジプトからおこったと考えていたようで、西洋人とっては珍妙きわまりない文字「漢字」を、なんとかヒエログリフ起源としようとしたみたいです。
 彼は、1602年にドイツに生まれ、イエズス会の神学校で学び、早熟の天才だったのですが、興味は、早くも天体観測や、機械の発明、オベリスクなどにも及んでいました。
 司祭になってから、アジアへの布教などにも意欲を示していましたが(なにしろ、イエズス会士は世界中に布教していました)、プロテスタントの隆盛により、ドイツで身の危険を感じて、イタリアに入り、1635年にローマの神学校に奉職することになる。
 何と言っても、ローマは歴史ある魅惑の都市。彼の考古意識?が俄然芽生え、ローマ市内のあちこちにあるオベリスクが、これまたエジプト心を刺激。キルヒャー力、全開! 
 シチリアに渡れば、エトナが噴火。ナポリに行けばベスビオが煙を吹く。なんと、キルヒャーはベスビオの火口にまで入って調査。
 イエズス会の東洋支部は、アジアの珍しい情報をローマに頻繁に送って来る。かくして、彼の前代未聞の偉業?がはじまったのです。
 キルヒャーの面白さは、いくらでもありますが(例えば猫演奏会とか)、あくまでも彼は敬虔なカトリックの司祭で、全ての驚異の自然は神が創ったものと信じていたので、世界、ひいては全宇宙を研究することは、神に近づく手段だったのかもしれません。つまりは「美しき天然」の歌詞のように

 ♪見よや人々 たぐいなき  この天然の うつし絵を
  筆も及ばず かきたもう  神の力の 尊しや  ♪  

 背景は、彼の「地下世界」の挿図で、マグマが地上に噴火する様子を描いたものです。
2010-06-15

サド侯爵

サド侯爵

 最近、目の調子が悪いので、パソコンを少々自粛ぎみでした。
 といっても、まあ、もう大丈夫なんですが、本日はサドです。
サド・・つまり、サディズムといえば、苛めて喜ぶ性癖を表わす言葉として、一般的になっています。
 勿論、マルギ・ド・サド(ラウラの子孫ドナチアン・アルフォンス・フランソワ・ド・サド)の、センセーショナルな「行動」と、背徳的な文学がその言葉の理由となっていますが、74年ほどの生涯のうち30年以上を、どこかしらに幽閉されて・・いや、当時の社会が、閉じ込められねばならないと恐れられた人物です。
 もともと、彼は、不品行、浪費癖のある若者であり、貧乏貴族の侯爵家にとっては、跡継ぎながら厄介者。
 そして、パリの裁判所所長のモントルイユ家が、裕福ながら門閥がないので、見てくれだけは、なかなかに良い、この貴族の不良青年を、娘婿にすることにします。
 サドにとっては、うるさい父親の手から逃れる手段として結婚したのですが、今度は、一筋縄ではいかない手ごわい姑モントルイユ夫人の手に落ちた・・ということになります。
 まあ、この姑と、その娘とは思えないほどのけなげな嫁や、その妹などなかなかに面白い女性が廻りを取り囲みますが、それは色んな文学作品があるので、まあおいとこう。
 結局、彼は既婚であろうが未婚であろうが、当時の社会通念の良識からは受け入れられないような「恥知らず」な性的嗜好を持っている・・ということで、幽閉の憂き目を見ます。
 現代になってから、彼の文学や、その行動は評価されるのですが、あくまで本人は、「良識と権威なんかくそくらえ!」な人生だったんでしょうね。
 彼の不品行と言っても、今日的には、女性を鞭打ったり、男性と乱交したり、教会の権威を貶めたり・・ってことて・・・話だけでは、皆驚かないんじゃあないでしょうか。まあ・・それも、彼の「功績」か・・・。
2010-06-11

ラウラ

サドの先祖

  詩人のダンテが、理想の女性と持ち上げて有名になったのは、ベアトリーチェですが、この人は、文学上のアイドル美女となりました。
 同じく、詩人ペトラルカが、理想の女性として詩を捧げ、二十年にもわたる「片思い」を延々と寄せられたのは、ラウラ・デ・ノヴェスという女性です。
 この人の場合は、ダンテのように早熟の恋(ベアトリーチェに会ったのがともに9歳。9年後に再開して、彼は燃え上がる)ではなく、下級聖職者であった20代のペトラルカが、教会のミサに来ていた貴婦人を見初めたのです。この時ラウラは、すでに結婚していて、子供も2.3人いたかもしれません。
 それ以後、色々と彼女を褒め称える詩を書き、一方的に恋心を寄せるのだけれど、彼女のほうが、どう思っていたかはわからないですね。貴族の夫人として、自分を称える詩人などは、アクセサリー程度だったのかもしれません。ペトラルカが熱を上げていた20年間に、夫との間に11人の子供を持ちました。
 彼女が、文学上のアイドルとしてはベアトリーチェに負けている?のは、まあ、ベアトリーチェが24歳で若死にしたということともありますが(ベアトリーチェも、結婚して子持ちだったし・・)、ラウラの子孫に問題ありなのかも・・。
 といっても、14世紀の人である彼女より400年も後の人物です。ラウラの夫は、ユーグ・ド・サドといい、その子孫がマルキ・ド・サド侯爵です。
2010-06-08

ポール・バラス

バラス

  バラスとくれば、今はもう私個人の頭の中には、長谷川哲也氏(「ナポレオンー獅子の時代」)描くところの「包帯グルグルで義手で、ぎゃっ ぎゃって笑う、下品なおっさん」しか思い浮かびませんでした(とっても毒されていますが、バラスで画像検索すると絶対、この包帯男が登場します)。
 ところが先日、宝塚を見に行って、「美形の」バラスが登場したので、びっくり仰天・・で、あらためて、考えてみれば(当たり前なのですが)根性や行動はともかく、クーデターをやって総裁政府をこしらえて牛耳った、とにもかくにも、ひとかどの「人物」なのかも、と考えたわけです。
 勿論えげつない「悪徳の士」であったことは当然ですが、その「悪」に魅かれて集まったのは、野心的な男たちばかりでなく、かのタリアン夫人や、ジョゼフィーヌのような女性もいたのですから、そこそこ、見てくれは悪くなかったのではないか・・。
 で、肖像画を見てみれば、おだやかなオジサマ風・・うん・・そうかもしれない。ということで、本日はバラスさま。ポール・フランソワ・ジャン・ニコラ子爵でございます。実生活は、「ほうる、バラす」の連続で・・・すみません、しょうもないダジャレで。
2010-06-02

三重の采女

采女

  三重の采女は、古事記に登場する女性です。
 伊勢の国から献上された采女で、雄略天皇の時、大きなケヤキの下で宴を張った折、天皇の給仕を勤めていた采女が、杯を捧げたところ、木の葉が入っていました。
 気の短い天皇は、怒り狂って、このような不始末は許さん! そこへなおれ! 斬り捨ててくれる! と、刀の柄にてをかけた時に、采女は、一言申し上げたきことがあります。と奏上、許しが出たので、高らかに歌いはじめます。
 纏向(まきむく)の 日代の宮は 
 朝日の 日照る宮  夕日の 日翔ける宮 
 竹の根の 根足る宮 木の根の 根這ふ宮 
ではじまる、宮殿を褒め称える歌で、天下を覆うほどの豊かな木が茂っているので(それほど帝の御威光は広がっているので)、その葉の一枚が、三重の采女の捧げる瑞玉盃(みずたまつき)に浮かびました。そのさまは、まるでかつてこの国が生まれた時の神話のように目出度く、神々の子孫である日の御子の栄光を称えます・・というような意味です。
 この采女の歌に満足して、天皇は彼女を許した・・というものです。
 いかにも暴虐そうな荒っぽい雄略天皇らしいな・・と昔は思っていましたが、そういう気性の激しい天皇個人の問題ではないのかもしれないな・・などと最近感じはじめました。
 天皇の神聖な宴会の盃に木の葉が入るなど、とてもげんが悪いし、穢れをもたらすので、怒ったのではないのか・・と。また、罪を犯した采女は、神に捧げる歌でもって、この出来事を良い意味に置き換えて、穢れをはらったので許されたのではないか・・というのはどうでしょうね?
 それはともかく、采女の捧げていた盃は「瑞玉盃」と書かれています。これって、木製や、焼き物ではなくて、ガラスだったのではないか・・なんて思いません?
 正倉院に伝わるのと全く同じもので、伝安閑天皇陵出土の切子ガラスの素晴らしい椀がありますが(時代が少し違いますが)、この玉椀を捧げていたのではないか・・と想像してみました。
 采女の装束は明治時代にもあった近代のもので、青海波の衣裳を着て緋の袴のスタイルがありますので、そのイメージの色彩にしてみました。埴輪の「巫女」?にも青海波紋様の上着を来たのがありますので、さほど違和感はないかなと・・・。
2010-05-31

安閑天皇と宣化天皇

携帯子供

 安閑天皇(勾大兄皇子)と宣化天皇(檜隈高田皇子)の兄弟は、継体天皇の国元の妻であった目子媛の子供たちです。
 父の継体が天皇になるために手白香皇女と結婚しましたが、息子達もこの皇女の妹たちとそれぞれ結婚をして、父の後をついだ・・ということになっています。
 継体の死後、2人はすんなり皇位を継承したのではなく、手白香皇女の子供である欽明天皇と、この2人の兄弟の間に対立があり、2つの王朝があったというような説や、この2人は暗殺されたんではないか・・とまで言われるような話までありますが、大和の王家に姫君たちは、この地方から来た傍系皇族と「集団結婚」して皇統を守った・・ということなのでしょうかね。
 対立があったかどうかは別として、この姉妹との子供たちの系譜に後の皇統を伝える欽明がおり、宣化の娘の石姫がおり、その息子に敏達(勿論正妃は推古女帝)。敏達の孫娘に宝皇女、すなわち斉明女帝までつながります。
 兄弟の年齢は、書記の記載を信じると、兄が即位した時には66歳と65歳ですが、父の継体天皇の年齢の異説には20年の差があるので、若めにしてみました。 
2010-05-30

手白香皇女と姉妹

三姉妹女王

 手白香皇女は、継体天皇の皇后で、武烈天皇の姉とされています。
 彼女の同母妹である橘仲皇女と、異母妹の春日山田皇女の三姉妹を描いてみました。
 ということで、何故に洋風か・・というと、帝政様式の衣裳を描いてみたかったからです。つまり、ナポレオンの3人の妹達(ややこしい三姉妹です♪)の正装ですね。頭にティアラ。白いサテン生地に金糸の刺繍の胸高の身体に沿ったドレスです。王家の姫君にふさわしいかな・・と。
 この姉妹は、女系では雄略天皇から続く根っからのお姫様。武烈天皇の跡を継いだとされる継体天皇は手白香皇女を正妃にし、欽明天皇を産んでいますが、前妻?の目子媛の息子達2人(安閑・宣化)を、それぞれ、手白香皇女の妹たちと結婚させています。
 簒奪王朝か否かは別として、親子揃って入り婿した一家なんですよね。
 武烈や手白香、橘仲姉妹の母である大春日皇女は雄略天皇の皇女ですし、橘仲皇女が継体の息子の宣化天皇との間に生んだ石姫は、手白香の息子の欽明天皇に嫁ぎます。
 これって・・エジプトではないけれど、女系での王位継承みたいな感じがしません? 入り婿による統治・・みたいな。石姫の息子が敏達天皇で、彼の皇后が推古女帝ですが、もう女系の女帝はすでに、雄略の系譜ではじまっていたのかも・・なんて・・妄想を産みます。
 ところで、雄略天皇の「雄姿」や、古代マンガ。明治の元勲達の面白い物語?やイラストが満載なサイトに「隠国ーkomorikuー」があります。なかなかに面白いです。
2010-05-28

照日の前

はながたみ

 継体天皇をめぐる越前での伝説の人物ですが、謡曲「花筐(はながたみ)」の主人公で、上村松園の名作「花がたみ」の絵・・といえば思いだされるのではないでしょうか?
 上村松園の絵では、髪は乱れ、着物はしどけなく、表情もうつろで無気味な微笑を浮かべた平安美人です。
 手には、文を結びつけた花かごを下げ、足元に紅葉を踏みしだくという図柄です。
 この女性は、「狂って」いるのですが、それは、恋しい男を追いかけてきたのですね。
 物語では、越前に地にいた男大迹王という傍系皇族が、中央で皇位につくことになり、現地妻であった照日の前をおいて、都入りしてしまうのですね。なぜならば、(多分)即位の条件が、先代天皇の姉と結婚しなければならなかったからですね。
 まあ、社長令嬢と結婚して、次期社長の座を手に入れるために、今の恋人が邪魔になった・・・とかいうのと同じようなお話。
 「ひどいわ~! 許せないわよ~! あたしのおなかにはあなたの子供がいるのよ~!」などとモメて、修羅場になるのを避けるためか、男大迹王は、花かごと置き手紙をして、さっさと都に行ってしまう。
 彼女は、悲しみのあまり精神が破綻し、やみくもに、去った男を追って大和を目指します。勿論、その形見の花かごを持って。
 そしてついに、今は帝となっている元夫の行幸に出合い、なんやかやあって・・結局、お妃の一人として迎えられる・・というものです。これって、彼女の演技力と、実力行使が功を奏したのでしょうね。
 なによ! あんただけ、いい目は見せないわよ!というところでしょうか。
 で、この女性にモデルはあるのか・・・というと、まあ、何人も女性がいた天皇ですが、安閑・宣化の2帝を産んだ目子媛ではないか・・なんて言われていますが・・そうだとしたら、ちゃんと子供たちも認知させたのですよね。
 平安風俗で描いてみるのも面白いかなと思ったのですが、やはり古代風で・・。上村松園の「花がたみ」では、「細長」という衣裳を羽織っているので、そのような上着を着せてみましたが、こんなのが、いつごろからあったかよくわかりません。手に持つ籠の中の花は枯れている・・というのにしてみましたが・・・ただ、こぎたないだけか・・。
2010-05-26

継体天皇

けいたいさん

 継体天皇はけったいなひとです・・という苦しいダジャレですが、なかなかに、謎の人物。本当に皇族であったのか否か。近江の豪族だ、いや越前の出だとか色々と諸説入り乱れる人物です。
 本名は男大迹王(おおどのおう)といいます。
 阪急沿線は高槻の今城塚が墓だといわれていて、地元では盛り上がっているようで、高槻では、高山右近とこの方が2大スターの観があります。
 出自がどこであれ、近江と淀川水系をつなぐルートになにやら縁が深そうで、この人の時代には、考古学の出土遺物では「継体セット」(?)なるものがあるようです。その一つは、ねじり環頭太刀。広帯二山式冠。そして三葉文楕円形杏葉。つまり、太刀と冠と馬具。
 で、これらのものをそろえると、まあ継体ファッションが出来上がるのですが、せっかく大王に推薦されながら、20年も(あるいは7年?)大和に入れなかったそうなので、実は王族などではなく、外から来て大和を征服したのだろうと言う説もありますが、どちらにしても、彼が天皇とされているのは、武烈天皇の姉の手白香皇女に入り婿したからでしょうね。
 その婿入り年齢も22歳説と57歳説があります(したがって死亡時も46歳、81歳の2説)が、35年の誤差に、20年の放浪・・・これって・・・「人間50年」からいくと大層な数字ですよね。重耳にも匹敵する気の長い王ですね。
 この謎の人にして、有名人の継体さんをイメージしてみました。
 ねじり環頭太刀と広帯二山式冠のスタイルです。
 あ、馬具の杏葉の三葉文というのは、早い話がフランスの百合紋様をひっくりかえしたようなやつです。馬がいないのでこれは省略しました。
 着物の色彩は勢いで。だってキンキラの冠やら、じゃらじゃらのネックレスには派手な衣裳が似合いそうでしょ。日本古代は色彩に満ちていたのではないかと思っています。
2010-05-23

エドワード6世

乞食皇子

  たった6年の在位で、しかも10歳から16歳という、全く業績があったかどうかわからないような年齢の王様でありながら、この方が有名なのは、かのヘンリー8世の王子で、エリザベス1世の弟だからです。
 ヘンリー8世は、世継ぎの王子が欲しいために次から次へと王妃を変え(このへんが一夫多妻の東洋の君主と違う苦労ですね。正妃の子供でないと嫡子ではないのです)、結局この人が生まれたことにより、一応、王位安泰・・と思ったのでしょう。母親のジェーン・シーモアは産褥で死んだ不幸な王妃でしたが。
 しかし、この王子は生来病弱で、10歳で即位し、16歳で亡くなりました。どれほど王位の安泰を願ったかしれないヘンリー8世の後継者は、まさに親の因果が子に報い~という通り、王の夭折のあと、ジェーン・グレイの悲劇や、メアリーとエリザベスの確執にまで引き継がれます。
 この影の薄い若い国王を、「名君」として描き、またその名君となるに至るドラマを作ったのが、マーク・トゥエインの小説「王子と乞食」です。
 この小説は、容貌が瓜二つの人物が入れ替わるという、よくある通俗ドラマの典型ですが、これに登場するエドワード王子は、勇気と包容力に富み、とても10歳とは思えぬ行動力のある少年です。
 一方のトムも、ならず者の息子ながら、近所の貧乏神父に読み書きとラテン語まで習い、本も読んでいるという、教養ある少年(この神父が、元は身分ある高僧だったけれど、ヘンリー8世の宗教政策で失脚したとされているのは、歴史小説的な設定です)。 
 ところで、この物語は、大昔に私が持っていた絵本(講談社絵本の「こじき王子」だと思うのですが、確証はありません)で、騎士ヘンドンが王子を抱えて馬で走るシーンが、馬を下から見上げる構図で見開きに描かれており、大迫力でした。いまだに、私が、馬の絵が好きな理由はこの本にそのモトがあるんです・・なんてまあ、これは個人的なことですが・・・。
 肖像画のエドワード6世は、やさしげでひ弱そうですが、ちょっと「目ぢから」のある少年の雰囲気で描いてみました。
2010-05-22

ある男の肖像

イタリア帽子

  「ある男の肖像」だなんて、なんじゃこれ・・なタイトルですんません。
 全く別の絵ですが、以前、アントネッロ・ダ・メッシーナの作品で、そのまんまのタイトルの絵を、わざわざ見に行ったこともあります。一体誰を描いたものかわからないので、そう呼ばれているというだけでして、意味ありげな表情の男の肖像でした。
  このモトネタの絵は、1514年に製作されたとされる絵で、作者も不明だったのが、ティツィアーノだとされたそうですが、誰を描いているのかわからない・・というのがありまして、・・その人物に興味が引かれたのですね。
 でも、誰だかわからないので、「ある男の肖像」・・・。すんません。
 パンフレットのタイトルは「病める男」だそうですが、一体どこを病んでいるんだか・・。
 薄ら笑いを浮かべたような口元に、意地の悪そうな目つき・・。どこも悪そうではない(むしろ根性が悪い?)。
 あきらかに「病んでる」なあ、というカラヴァッジオの、顔色の悪~いヴァッカスなどとは違います。顔色も悪くはないし・・。
 この1514年がどういう年だというと、ティツィアーノだと「聖愛と俗愛」を描いた前の年。
 ラファエッロの「椅子の聖母」や「聖ペテロの救出」の描かれたた年です・・って、まあそれがどうしたなんですが・・。まあ、顔の右半分が影になった絵を描いてみたかっただけですが・・・誰なんでしょうね。
2010-05-21
プロフィール

乱読F

Author:乱読F
歴史上の人物を沢山描きたい・・。
実在・架空2000人描き

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