庭園の宮女

古代女官

 高松塚古墳の西壁女子が公開されていましたね。
 男子像については、以前触れました。
 この時代の宮廷女官たちの姿には、発見された当時も今も、驚きをもっています。
 大陸風の風俗とは少し違う、緩やかな上着にあっさりとした髪型。
 これが、そのまま、ゆったりした平安風俗につながるには、、むしろ大陸風のものより、無理のないスタイルだとも思われます。
 緑と池のある宮廷の庭で、古代風の宮女がいる・・というイメージで。
 高松塚の壁画では、衣装に文様や地織りがあるようには見えませんが、後世の唐衣など地模様のあるほうが華やかかな・・と。
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高松塚壁画男子像

高松塚壁画男子像

 高松塚壁画については、いろいろと話題豊富な古墳だし、壁画の黴問題などいろいろあります。
 しかし、以前から気になっていた男子像の、いまのところ分かる範囲のイメージを作っておきたいと考えて、あえてまた地味なおじさん絵を描きます。
 高松塚の男子像は女子像ほど人目も引かず、保存状態もよくないのであまり画像としても取り上げられることは少ないかもしれません。
 壁画の人物配置などは別のところで書きますが、一応、男子像は二種類の服装をしているということがわかっています。

 一つは、かぶっているがよく似ていますが、二種類あること。
 着ているは色などに違いがありますが、ほとんど同じものです。
 ただ、個人的には証拠不十分ですが単衣と袷があるのではないかと思っていますが・・・。
 それと、履物が二種類
  黒い革靴・・つまり烏皮(くろかわ)の履と呼ばれる奈良時代の役人の靴の前身ではないかとおもわれるもの。
 もう一つは、線鞋(かい)という編み物の履物・・まあ草鞋の上等なものですね。紐で足首に結び付けるサンダルみたいなものです。

 向かって左側の人物がかぶっているのは布地が入子菱のような文様を浮かび上がらせている緻密な織物で、漆紗冠、あるいは皀縵(くりのかとり)頭巾とされるものではないかと思われ、顎紐があります。
 履物は烏皮履です。
 袍はもしかしたら袷ではないかと思います。袖口に緑色の裏地らしきものが見えます。
 帯はこの裏地と同じ色の緑。

 右側の人物は、幞頭とされるうすい紗の被り物で、布型の隅を頭に巻きまくり上げて髷を包んだ前で結び形を付けるものです。
 全ての男子像に残っているわけではありませんが、西壁の首から袋を下げている人物(履物は鞋です)の頭には一重の斜め線が描かれており、額が少し透けている感じが出ています。
 
 つまり、顎紐のある緻密な斜線の入った冠をかぶって、を着て、皮靴を履いている人物。
 それと、薄い紗で、顎紐はなく髷に結び付けるタイプの頭巾をかぶっている人物は単衣の袍を着てサンダルを履いているということになります。
 
 顎紐の冠の人物は髭をはやしているのが多いことなどを考えて、これらの違いは、身分、位階の上下ではないか・・と考えますがいかがでしょうね?
 なお、幞頭、かぶりものについては、逆名さまがとても詳しく解説しておられます。こちらの記事です。中国については、こっちです。
2015-02-11

新沢千塚の貴人

新沢千塚の貴人

  「歴史に憩う橿原市博物館」という、長ったらしい名前の博物館に行ってきましたよ。
 目的は勿論、新沢千塚126号墳です。
 ここは、重要文化財に指定された数々の出土品で有名なところです。
 被葬者は、華麗な耳飾りや、腕輪に、指には8つも指輪。首飾りに、歩揺がついた透かし彫りの装飾金具(冠帽の装飾といわれています)、ガラス碗や瑠璃ガラスの皿も出ました。勿論太刀もありますし、もあります。
 熨斗(のし)や漆器なども出たし、たくさんの指輪などから被葬者は女性ではないかという説もありますが、あの大きな太刀は男性じゃないでしょうかね。
 頭のところの飾り金具も、北燕に同じようなものがあり、頭の前に一枚だけ飾りをつけるのって、これがなら、大陸ではよくある冠前の飾りでしょうが、残念ながら蝉ではないようで、どうも龍らしいとのこと。
 北燕から高句麗などと関係のある一族の長といったところでしょうか? 
 ビラビラの歩揺も、胸の部分だけなので衣服に縫い付けられていたのではないかとかいう説もあるそうですが、あんなのがビラビラついた服があるのかしら?
 むしろ冠から垂れ下がる紐とかにつけられていたのではないかとか、いろいろ考えましたけど、藤ノ木古墳のように覆っていた布につけられていたのではないかと考えてみました。
 またベールの後ろに縫い付けられて背中に垂れていたとか?
 よくわからないけれど、あれだけビラビラがある上に歩揺は、冠装と言われる四角い透かし彫の周りにあるのと同じなんですよね。
 で、苦し紛れにこんな風にしてみました。
 冠は高句麗壁画によくある武人の冠。鳥の羽がついています。
 正面に装飾があるのがあるし、なんとなく韓国ドラマにこういう鉢巻きした古代人がたくさん出てきますよね。あれは何をモトネタにしているのでしょうか? 花郎かしら?
 服装も高句麗風で。襟の文様は、飾り金具の龍を丸文にしてみました。モトネタというか資料はこちらにちょっと書いています。
2014-09-07

今城塚の鷹匠

今城塚の鷹匠

 大阪府高槻市にある今城塚は、継体天皇の墓ではないかとか、たくさんの埴輪があることで知られています。
 この埴輪列の最前線には、たくさんの馬、甲冑姿の武人とともに2人の鷹匠がいます。
 この二人共は、被り物をかぶらず、革鎧のようなもので軽く武装しており、鷹を左手にのせて、手を前に組み合わせ、拝礼しているようにもみえます。
 葬送儀礼の先頭で、大王の鷹匠は、これから主が旅立つ彼岸の空への偵察として空に鷹を放つのでしょうか?
 鷹にはひものようなものは表現されていませんが、後世に、鷹の尾羽につける鈴板のようなものが使用されていたのか、鷹の尾の上には鈴らしき丸いものが乗っています。 
 勿論、埴輪ですから色彩などはわかりませんが、上半身だけの革鎧のようなものに、足元はくっきりラインが引いてあるので、藁沓のようなものを履いていると思われます。
 イメージで色を付けて描いてみました。
2014-07-23

中臣御食子

中臣御食子

 古代の神祇官というものがどのようなスタイルをしていたかわかりません。
 そもそも、中臣御食子(なかとみのみけこ)という人物が神祇官であったかどうかもわかりませんが、中臣氏というのは神と人との仲立ちをする一族で、古来、神祇関係の職業につく家柄だったという可能性はあります。
 神職をはなれて政治家の道に進んだのは、御食子の息子にあたる鎌子(つまり藤原鎌足)ですから、鎌子が「神祇伯」の職を蹴ったというような記録があるのは、本来は神祇関係の家の子だったんでしょうね。
 現在も伝わる神職の人たちが、大切な神事である式年遷宮などを行うときは、明衣という白い衣を、正装の束帯の上に重ねて、額に 木綿鬘をつけ、木綿襷をかけるとされているので、おそらく古代でも、衣の上から、額蔓と襷をつけたのではないか・・という想像です。
装束の上からかける小忌衣(おみごろも)なども白いものですから、神事は白い衣装で行ったのではないでしょうか? 
2014-07-17

欽明天皇

欽明天皇

 仏教伝来の時の天皇として、まず思い浮かびます。
 それまで日本になかったキラキラしい仏像や、荘厳な道具立てに新しい時代の到来を予感させる・・というようなイメージがあります。
 しかし、国内では、かの継体王朝と、旧王朝の双方の血を引く後継者でもあり、安閑・宣化の異母兄弟とは対立王朝であったのではないか、とか、外交問題でも波乱含みで、任那日本府(これは最近いろいろ問題がありそうなところですが)の滅亡やら、半島出兵して失敗したとか、多難の時代です。
 仏教伝来にしても、従来の国つ神と、新来の仏さまとの間で、蘇我や物部などの氏族間の宗教対立に名をかりた混乱がはじまります。
 そして、この人自身が母親が手白香皇女であるうえに、妻の石姫は宣化天皇の皇女ですが、その生母は手白香皇女の妹で、これまた旧王朝の姫。
 二重の意味で、新旧の王朝の融合を果そうとしています。
 イメージとしては、絢爛たる仏教伝来の王様というより、なんだかとっても苦労のたえない生涯を送った人物・・という感じで、眉間にたてじわな感じですが。
 一生がきなくさい感じがしましたので、武装にしてみました。
 甲冑は、今城塚古代歴史館に展示されている復元甲冑風です。
 継体天皇の息子なので、ま、いいかな・・と。 
2014-07-12

吉野の五皇子

吉野の五皇子

 吉野の会盟といえば、六皇子ではないの?
 との御不審もありましょうが、あの場に参加していた八人の盟約・・・つまり天武天皇、持統天皇(当時は皇后)に対して、六人の皇子が互いに協力し合うことを誓うというものでありますが、いわば、草壁皇子の「立太子」に、他の五人が「文句はいいません」ということを認識させられたものですから、五人でいいのではないかと・・。
 で、吉野の五皇子です。
 後列左から高市、大津、川島。前列が左から施基、忍壁です。
 この吉野の会盟の時に、それぞれの年齢が推定されていまして、高市が最年長で26歳。川島23、長壁が20、大津が18、施基14くらいということらしいので、施基だけが、みずらにしてみました(シキの皇子は二人いますが、このシキの皇子は、天智系の方で、川島の弟です)。
 大津と忍壁って初描きですね。大津は何度も名前が登場していながら、ある意味、万葉の悲劇のヒーロー的なのが、私的にはイマイチで、なんとなしにイメージがわきにくい人物ではありました(体育会系だと推測してましたが・・)。
 今回あえて、総出演となったのは、先日、関西大学特別公開講座関連のツィッターを読んだからです。
 猪熊先生が、この皇子たちの墓を特定されてしまったことです。これは、もう大変なことですが、はたから見てるとこんなに面白いことはない。
 猪熊先生によれば、なんと高市はキトラ古墳。川島はマルコ山。草壁は束明神、忍壁が高松塚だとか!
 さあ、皆さまはいかが思われますか?
2014-05-24

穴穂皇子

穴穂皇子

 もう一人「眉輪」(野溝七生子 展望社)の登場人物です。
 気の強いヒロインということで、若草香王女をとりあげましたが、殺される兄の妻・・つまり、ハムレットのガートルードであるところの中蒂姫(なかしひめ)を奪うのが安康天皇、つまり穴穂皇子(あなほのみこ)です。
 この人物は、ハムレットでいえばクローディアスにあたる人物ですが、ただ暴虐な・・という立場は弟の泊瀬皇子にその役割を譲っていますので、悩める王ということになっています。
 兄と姉にあたる軽太子と軽郎女の二人が、禁断の恋を全うして死んだ激しい恋について、嫉妬と羨望を抱いているという人物。
 そして彼にとって、秘密の憧れの恋人がおり、それは人妻だということで、これまたゆがんだ心理を持っています。
 その初恋の人が従姉妹にあたる中蒂姫です。
 そしてその中蒂姫も、夫を殺され略奪されるのだけれど、彼女自身の憧れの「白の王」(しろのおおきみとでも読むのでしょうか)として、記憶の中にある人物が、そもそも穴穂皇子だったという・・・お話。
 こういう複雑な背景を設定していて、映画のための筋書きだったそうですが、古代史劇というより、神話的恋愛ドラマということで、宝塚でやったらとても面白いかも・・なんて思いました。
 そういう発想で、この悪役というにはちょっと軟弱な穴穂皇子を白の王という感じで・・・。 
2013-06-15

草香幡梭姫皇女

草香幡梭姫皇女

草香幡梭姫皇女(くさかはたひひめのひめみこ)。
 名前を読むだけでもややこしいのですが、この人のことについては、pixivで、朝倉の宮と題するイラストで、有る小説を知りました。
大正14年に書かれて、天皇家を題材にしていたために発表できず、70年の時を経て活字化されたといういわくつきの小説「眉輪」(野溝七生子 展望社)です。
  これは読まねばなるまいと読んだのですが、これに登場する大草香王女がこの人です。
 日下部氏というのが、彼女のために設けられていた部の民であるということと、この部が軍事集団ではなかったか・・ということなどから着想されて造形されたのではないかと思うこの女性は、荒々しく馬を乗りこなし、気性が激しく、芯が強くて美しい姫ということになっています。
 仁徳天皇の娘で、大草香王子の妹。
当時この一家のあるじであった兄は、甥にあたる安康天皇から、皇弟の大泊瀬王子の妃に、妹姫をどうかという申し入れを受け、喜んで承諾し、家宝の押木玉蔓を皇子への贈り物として使者に託しまいした。
 ところが、その使者がこの宝物に目がくらみ、自分がほしくなってねこばば。天皇には「大草香王子は、求婚を蹴ったばかりでなく、天皇を侮辱しました」と報告。
怒った天皇がこの一家を討伐。まさか反逆の汚名を着せられているとは知らぬまま、大草香王子は死に、一族の女子供は捕えられます。
 そして、あろうことか、天皇は大草香王子の妻を奪い、妹の草香幡梭姫は、弟の大泊瀬皇子にやってしまうのです。
 本来ならば、ちゃんと手続きを踏んで、婚約し、輿入れ(古代では婿入りですから男が通ってくるんですが)のはずだったその当の相手に、まるで戦利品のように略奪されて妻にされた姫は、そのプライドをいたく傷つけられる。
 天皇のほうは、その奪った妃の先夫の子である眉輪王が幼いながらもハムレットするドラマがありますが、この小説では妹の若草香王女(こういう表記です)のほうにヒロインが割り振られています。
 これがなかなかで、決して打ち解けない猫のようなきっつい姫。
略奪とはいいながら、彼女にちゃんとふりむいてほしい大長谷王子(大泊瀬皇子をこう書いています)。
しかし、乱暴で粗雑な性格の彼は、女性をどうあつかってよいかわからないので、心が自分のものにならないまま悶々としている・・まあ・・そんなドラマで、結局は、眉輪王の事件後、即位する弟大長谷王子と、この略奪された姫との関係は、少しはマシになるのかしら・・というところで終わっています。
 記録上は、この草香幡梭姫皇女は、雄略天皇の皇后ということになっていますから、第一の妻であったことは確かなんでしょうが。
 野溝七生子の小説は、日本古代が舞台なのに、ギリシャ神話かシェークスピアか・・という雰囲気を漂わせていますので、ギリシャっぽい・・というか、トロイのアンドロマケ風のイメージで描いてみましたが・・・どうでしょうか。
 眉輪・野溝七生子
2013-06-08

弟橘姫

弟橘姫

 古事記編纂1300年シリーズ?です。
 古事記の三大悲劇(って、本当に誰が言いだしたんだか? 勝手に便乗する私)のヒロインが、狭穂姫、軽大郎女と二人出ましたので、やはり、この人は出さねば。
 ということで、もう一つの大悲劇倭健命伝説から弟橘媛です。
 夫のヤマトタケルは、伝説中の人ですから、彼女についても伝説の中ですが、タケルには皇室出身の正妻もおり、豪族吉備氏の女性も妃にしていて、弟橘媛は、いわば三番手・・くらいの身分です。
 しかし、タケルの東征にも随行していたし、一説では9人も子供を産んでいたとかいうのですから、常にそばにいた女性ではなかったでしょうか。
 荒れた海に行く手を阻まれたタケルのために、自ら海に身を投げ、海の神の機嫌をなおした・・つまりは人身御供の悲劇です。海に飛び込む場面が絵にも多く描かれます。
 タケルや弟橘媛については、はるうさぎさんがとても美しい絵をたくさん描かれています。
2012-02-12

木梨軽皇子と軽大郎女

木梨軽皇子と軽大郎女

 今年は、古事記編纂1300年ということですが、まあ、私もしょうもない絵を描きましたけれど、なんか行事やってるんでしょうかねえ。寒いのでとても、奈良とか京都(ブルブル)方面には足がむきません。
 そこで?古事記の三大悲劇(誰が言ってるんだ?)の一つとしては、この木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)と同母姉妹の軽大郎女(かるのおおいらつめ)の物語を取り上げましょう。
 この二人は、允恭天皇の子供たちで、同腹の兄妹ながら、恋愛関係に陥ったとして、忌み嫌われ、軽皇子は、「太子」の地位にあったのに、位を剥奪されて、弟穴穂皇子と争い、敗れたということになっています。
 兄と関係を持ってしまった妹は、兄が流罪にされたのちに、配流地まで追いかけて行き、そこで二人で心中した・・という伝説が歌物語として残されています。
 しかし、また、妹のほうが先に流罪となり、後に兄は弟と争って敗れた・・というお話もあります(ちなみに、勝利した弟は、のちに、眉輪王に殺された安康天皇です)。
 どちらにしても「悲劇」ですが、結論としては、軽皇子が、父の後継者としてはじかれ、それを不満として弟と争い、敗れて死んだというのが大筋でしょうね。それに、妹との恋愛がからむ。
 一方、妹の軽大郎女の側からすれば、兄と関係した時点で・・つまり恋の始まりから、もうすべてを捨てていて、後がありません。 兄が空しい?「敗者復活戦」としての反乱をする最後の手段がのこされていたとしても、彼女は、もし一説のように、斎宮のような祭祀女王の立場だとしたら、恋愛そのものがすでに資格喪失なのですから、並大抵の覚悟ではないような気がします。
 たとえ、兄が、ちょっと後悔したとしても、彼女には後悔なんてありませんから、熱意と覚悟は勝ったのではないか・・と。
2012-02-10

狭穂姫

狭穂姫

  狭穂姫(さほひめ)は、日子坐王の娘で、垂仁天皇の皇后であったとされる人です。
 実家に里下がりしている時に、実兄の狭穂彦が、「お前は、兄の私と、夫の天皇と、どちらが愛おしいと思うか?」という質問をします。「勿論、兄さんだわ」と返答すると、「わかった。まだ若くて美しい間はよいが、天皇の寵愛が衰えると、すぐにほかの女が現れる。しかし、私が天皇の位に上ったなら、お前は実の妹だから、二人して天下に君臨しよう」と誘います。
 そして、兄は妹に短刀を渡し、天皇が熟睡している時に首を刺して殺せと言います。
 これって、意味深ですよね・・って。別に兄妹で怪しいとかそういう下世話なものではなく、卑弥呼の逆を行くような話じゃないです?
 祭祀女王としての王族の女と、その実の兄弟の統治・・。
 夫の垂仁天皇は従兄弟にあたるのですから、ともに開化天皇の孫同志。皇位継承権はあると主張しているのですね。
 しかし、兄に天皇暗殺を頼まれた狭穂姫は、宮中に戻っても、彼女を信頼し、安心しきって、膝枕で眠る夫の顔を見ては、とても実行できず、はらはらと涙するばかり。そしてとうとう兄の計画を話してしまうのです。
 しかし、自分のせいで追われる立場となった兄を捨てることもできず、逃げ出して兄のもとに戻ってしまい、二人は追い詰められます。
 天皇は、どうしても姫を取り戻したいので、姫の赤ん坊を受け取りに行く口実で、部下に、手なり服なりとらえたら、ひぱって来て子供もろともに奪い返せと命じます。
 ところが、自ら館に火を放った兄妹は、覚悟を決めていて、赤ん坊を兵士に渡す際、姫は、手玉の紐や、衣服を腐らせて、髪をそり、鬘にしていて、兵士が衣服を引っ張ると、袖がちぎれ、髪をとらえると髪がすっぽり抜け落ち、手玉も紐が切れ、炎の中に飛び込んで、兄妹は壮絶な死を遂げたという物語です。
 私は、兄も夫も愛しているのに、どうして争うのかしら・・と涙がとどまらない・・という狭穂姫です。
2012-02-06

日子坐王

日子坐王

  日子坐王(ひこいますのみこ)は、彦坐王とも書きます。
 系譜上では、崇神天皇の異母弟にあたり、つまりは伝説上の大君である開花天皇の皇子ということになります。
 詳しいことはよくわからないくらい古い伝説上の人物ですが、いわゆる四道将軍と関係があります。
 四道将軍は、桃太郎のモデルといわれる吉備津彦大彦命、その息子の武渟川別(たけぬなかわわけ)、そして丹波道主(たんばみちぬし)と言われていますが、日子坐王は、その丹波道主の父親とされ、大彦の甥、武渟川別の従兄弟です。
 しかし、古事記によれば、崇神天皇の命令で丹波の陸耳御笠(くがみみのみかさ)を討伐したのは、日子坐であり、丹波地方に派遣されて平定をしたのは、息子の道主ではなく、日子坐自身だったのではないかという人もいるようです。
 ということで、地方へ派遣される王族武人の一人だったと思われます。
 この日子坐王の息子と娘が狭穂彦、狭穂姫で、垂仁天皇暗殺をたくらみ、失敗して炎の中で死んだドラマチックな兄妹ですが、このお話は、また別の機会に・・。
 日子坐王の別の系譜の四代目の子孫が神功皇后で、垂仁天皇の二度目の皇后、葉酢媛(ひばすひめ)も孫にあたります。
 ところで、大正頃の五月人形で、古代の武人をあつかったものを見まして、その個性的な髷や、衣装など古代を工夫してイメージしている様子が面白かったので、そのイメージで。人形のモデルは、四道将軍ではないかと思いますので・・。
2012-02-01

僧形八幡

hatimann
本日17日は、阪神大震災の17年目にあたります。仏教の年忌法要で言えば、数え年で計算しますので、17回忌は去年にすんでいます。 そして東北の大災害でも数多く方がなくなられ、痛ましい現実がまた起こっています。御冥福をお祈りいたします。
 
 八幡大菩薩として知られる神様は、奈良時代に応神天皇に擬せられ、弓矢の神そして、武家に戦いの神様として信仰されます。
 平安のころからは、神仏習合のためか、出家した姿の僧形の神像でまつられるようになります。
 また童子の姿で描かれることもありました。
 しかし、明治になって神仏分離令によって、神道と仏教を分けなければならなくなり、一部には、僧形をした神さまを「還俗」させようなどという動きもあったそうです。
 東大寺の僧形八幡が有名ですが、これは、いかめしく厳しい顔をした壮年の僧ですが、福岡のみやこ町の生立八幡宮のまるっちい八幡様(この神様が、もう少しで坊主頭に髪を生やせられそうになったお方です)は、なんとなくおだやかで、両手を膝の上に置いた落ち着いた坐像ですので、手を下げた姿にしてみました。
 顔つきは・・・ちょっと傲慢そうな目つきになってしまいました・・・。
2012-01-17 1
 

稗田阿礼と太安万侶

ひえださんとおおのくん

 こんなフザケた絵柄でごめんなさい。
 しかし、今年は、古事記編纂1300年だ・・ということで、なんだかあちこちで行事を企画しているようです。
 源氏物語1000年だとか、平城遷都1300年だとか、まあ・・キリのいい何かを探そうとすれば、なにかとあるかもしれませんね。
 日本は、けっこう古い国ですから。
 平城遷都1300年にはハダカ同然?だった「せんとくん」も、今年はお役所に勤務?していて、奈良時代の公務員の服装をしているそうです。ズバリ太安万侶をイメージしているのでしょうね。
 古事記が太安万侶によって献上されたのが和銅5年、つまり712年です。
 その編纂のはじまりについては、古事記序文によれば、天武天皇によって企画され、当時28歳で記憶力抜群?だった稗田阿礼という人物に、古い記録を誦み習わせたところから始まるとされます。 
 この誦み習わせるというのが、暗誦することなのか、ただ古い記録を読むことなのか、説があるそうですが、まあ、30年以上も一人でその記録の読み方とか、系譜上の人物の名前の発音などを伝承してきた人物から、文章もきちんと書ける歴史畑の職員が話を聞いて文書にまとめるってことなのでしょうか。
 太安万侶は日本書紀の編纂にも参加しているという説もあります。
 
  なんでもかんでもがアタマに入っているベテラン職員ひえださんが定年退職するので、急遽、別の部署からその後継に、突然人事異動されたおおのくん・・というイメージがわいてしまった。
 稗田阿礼が男性だか女性だかわかりませんが、何でも頭にメモしているおばさん職員・・って設定が、なんだかやけに現実的な気がしまして・・。
 あ、でも、古事記編纂1300年事業をを揶揄しているのではありません。
 古いことをなんでも知っている古参のおばさんが退職すると、けっこう困ると思うんですが・・・。
2012-01-10

方相氏

方相氏

 日は節分ですね。
 ということで、本来の節分のお祓い行事(年末のお祓い)であった、宮中の追儺式に登場するのが方相氏です。
 復元された追儺式は、平安神宮で行われますが、鉾と盾を持ち、四つ目の仮面をつけた「方相氏」が、ざんばら髪で、現れ、後ろにつき従うのは、たいまつを持った童子です。
 古代中国の、穢れをはらう役割を持っていたシャーマンの方相氏は、黒い衣、赤い裳、熊の毛皮を被り、四つの目のある黄金の仮面を被っていたといいますから、かなり派手だったのでしょうね。
 葬儀をつかさどったとも言われるので、次第に、穢れを祓う役目なのに、その姿の異様さから、怖れられるようになり、古い志怪文学などに、妖怪扱いされたりもしています。
 本国ですらそのようなのだからかどうか、わかりませんが、日本でも、次第にその異様な風体が鬼と混同されるようになったとか。
 昨日、登場した長田神社の鬼などは、この方相氏と鬼をつなぐものかもしれませんね。
 髪を振り乱すのは、かの諸葛孔明の「風を呼ぶ魔法」や、祈祷をするシャーマンでおなじみのスタイルですが、熊の毛皮・・ということで、よく目立つように白い髪にしてみました。
2011-02-03

五節の舞姫

五節の舞

 平安王朝の女性が、十二単で舞うというので、なにやら雅で華麗なイメージです。そもそもは、天武天皇の時代に天女が舞い降りたということがその起こりだという伝説がありますが、かの考謙女帝も若い時に舞ったとか。
 大嘗祭や新嘗祭の豊明の節会で舞われたのですが、天皇がじきじきにリハーサルからごらんになるというので、一族から舞姫を出すとなると大騒ぎで、年々その支度が贅沢になったので、しばしば華美なものは禁止されたようです。
 それでも、宮中の若い公達などには、今年の舞姫はどうだろうという期待はあったのでしょうね。僧正遍照が、美しい舞姫を、故事通り、天女にたとえて歌を詠んでいます。
 源氏物語では、源氏が、惟光の娘を舞姫にして出しています。
 髪を唐風に結い上げて、ひれをつける姿で舞います。
2010-11-02

三重の采女

采女

  三重の采女は、古事記に登場する女性です。
 伊勢の国から献上された采女で、雄略天皇の時、大きなケヤキの下で宴を張った折、天皇の給仕を勤めていた采女が、杯を捧げたところ、木の葉が入っていました。
 気の短い天皇は、怒り狂って、このような不始末は許さん! そこへなおれ! 斬り捨ててくれる! と、刀の柄にてをかけた時に、采女は、一言申し上げたきことがあります。と奏上、許しが出たので、高らかに歌いはじめます。
 纏向(まきむく)の 日代の宮は 
 朝日の 日照る宮  夕日の 日翔ける宮 
 竹の根の 根足る宮 木の根の 根這ふ宮 
ではじまる、宮殿を褒め称える歌で、天下を覆うほどの豊かな木が茂っているので(それほど帝の御威光は広がっているので)、その葉の一枚が、三重の采女の捧げる瑞玉盃(みずたまつき)に浮かびました。そのさまは、まるでかつてこの国が生まれた時の神話のように目出度く、神々の子孫である日の御子の栄光を称えます・・というような意味です。
 この采女の歌に満足して、天皇は彼女を許した・・というものです。
 いかにも暴虐そうな荒っぽい雄略天皇らしいな・・と昔は思っていましたが、そういう気性の激しい天皇個人の問題ではないのかもしれないな・・などと最近感じはじめました。
 天皇の神聖な宴会の盃に木の葉が入るなど、とてもげんが悪いし、穢れをもたらすので、怒ったのではないのか・・と。また、罪を犯した采女は、神に捧げる歌でもって、この出来事を良い意味に置き換えて、穢れをはらったので許されたのではないか・・というのはどうでしょうね?
 それはともかく、采女の捧げていた盃は「瑞玉盃」と書かれています。これって、木製や、焼き物ではなくて、ガラスだったのではないか・・なんて思いません?
 正倉院に伝わるのと全く同じもので、伝安閑天皇陵出土の切子ガラスの素晴らしい椀がありますが(時代が少し違いますが)、この玉椀を捧げていたのではないか・・と想像してみました。
 采女の装束は明治時代にもあった近代のもので、青海波の衣裳を着て緋の袴のスタイルがありますので、そのイメージの色彩にしてみました。埴輪の「巫女」?にも青海波紋様の上着を来たのがありますので、さほど違和感はないかなと・・・。
2010-05-31

安閑天皇と宣化天皇

携帯子供

 安閑天皇(勾大兄皇子)と宣化天皇(檜隈高田皇子)の兄弟は、継体天皇の国元の妻であった目子媛の子供たちです。
 父の継体が天皇になるために手白香皇女と結婚しましたが、息子達もこの皇女の妹たちとそれぞれ結婚をして、父の後をついだ・・ということになっています。
 継体の死後、2人はすんなり皇位を継承したのではなく、手白香皇女の子供である欽明天皇と、この2人の兄弟の間に対立があり、2つの王朝があったというような説や、この2人は暗殺されたんではないか・・とまで言われるような話までありますが、大和の王家に姫君たちは、この地方から来た傍系皇族と「集団結婚」して皇統を守った・・ということなのでしょうかね。
 対立があったかどうかは別として、この姉妹との子供たちの系譜に後の皇統を伝える欽明がおり、宣化の娘の石姫がおり、その息子に敏達(勿論正妃は推古女帝)。敏達の孫娘に宝皇女、すなわち斉明女帝までつながります。
 兄弟の年齢は、書記の記載を信じると、兄が即位した時には66歳と65歳ですが、父の継体天皇の年齢の異説には20年の差があるので、若めにしてみました。 
2010-05-30

手白香皇女と姉妹

三姉妹女王

 手白香皇女は、継体天皇の皇后で、武烈天皇の姉とされています。
 彼女の同母妹である橘仲皇女と、異母妹の春日山田皇女の三姉妹を描いてみました。
 ということで、何故に洋風か・・というと、帝政様式の衣裳を描いてみたかったからです。つまり、ナポレオンの3人の妹達(ややこしい三姉妹です♪)の正装ですね。頭にティアラ。白いサテン生地に金糸の刺繍の胸高の身体に沿ったドレスです。王家の姫君にふさわしいかな・・と。
 この姉妹は、女系では雄略天皇から続く根っからのお姫様。武烈天皇の跡を継いだとされる継体天皇は手白香皇女を正妃にし、欽明天皇を産んでいますが、前妻?の目子媛の息子達2人(安閑・宣化)を、それぞれ、手白香皇女の妹たちと結婚させています。
 簒奪王朝か否かは別として、親子揃って入り婿した一家なんですよね。
 武烈や手白香、橘仲姉妹の母である大春日皇女は雄略天皇の皇女ですし、橘仲皇女が継体の息子の宣化天皇との間に生んだ石姫は、手白香の息子の欽明天皇に嫁ぎます。
 これって・・エジプトではないけれど、女系での王位継承みたいな感じがしません? 入り婿による統治・・みたいな。石姫の息子が敏達天皇で、彼の皇后が推古女帝ですが、もう女系の女帝はすでに、雄略の系譜ではじまっていたのかも・・なんて・・妄想を産みます。
 ところで、雄略天皇の「雄姿」や、古代マンガ。明治の元勲達の面白い物語?やイラストが満載なサイトに「隠国ーkomorikuー」があります。なかなかに面白いです。
2010-05-28

継体天皇

けいたいさん

 継体天皇はけったいなひとです・・という苦しいダジャレですが、なかなかに、謎の人物。本当に皇族であったのか否か。近江の豪族だ、いや越前の出だとか色々と諸説入り乱れる人物です。
 本名は男大迹王(おおどのおう)といいます。
 阪急沿線は高槻の今城塚が墓だといわれていて、地元では盛り上がっているようで、高槻では、高山右近とこの方が2大スターの観があります。
 出自がどこであれ、近江と淀川水系をつなぐルートになにやら縁が深そうで、この人の時代には、考古学の出土遺物では「継体セット」(?)なるものがあるようです。その一つは、ねじり環頭太刀。広帯二山式冠。そして三葉文楕円形杏葉。つまり、太刀と冠と馬具。
 で、これらのものをそろえると、まあ継体ファッションが出来上がるのですが、せっかく大王に推薦されながら、20年も(あるいは7年?)大和に入れなかったそうなので、実は王族などではなく、外から来て大和を征服したのだろうと言う説もありますが、どちらにしても、彼が天皇とされているのは、武烈天皇の姉の手白香皇女に入り婿したからでしょうね。
 その婿入り年齢も22歳説と57歳説があります(したがって死亡時も46歳、81歳の2説)が、35年の誤差に、20年の放浪・・・これって・・・「人間50年」からいくと大層な数字ですよね。重耳にも匹敵する気の長い王ですね。
 この謎の人にして、有名人の継体さんをイメージしてみました。
 ねじり環頭太刀と広帯二山式冠のスタイルです。
 あ、馬具の杏葉の三葉文というのは、早い話がフランスの百合紋様をひっくりかえしたようなやつです。馬がいないのでこれは省略しました。
 着物の色彩は勢いで。だってキンキラの冠やら、じゃらじゃらのネックレスには派手な衣裳が似合いそうでしょ。日本古代は色彩に満ちていたのではないかと思っています。
2010-05-23

元明天皇

元明天皇

 飛ぶ鳥の 明日香の里を おきて去なば 
    君があたりは、見えずかもあらむ 

 今年2010年は、平城遷都1300年で、奈良では色んな行事が盛り上がって?いるようですので、この方です。
 遷都は和銅3年3月10日のことでしが、この時、時の天皇、元明女帝が詠んだとされるのが、上の歌です(新古今集)。
 意味は「明日香の里をおいていってしまえば、もうあなたのいらっしゃる辺りは、見えなくなってしまうのですね」というだけのことなのですが、これが、飛鳥から奈良への、当時の都としては大移動だったのですね(勿論、難波や近江はありますが、常に戻っていましたよね)。
 元明女帝は、本名は阿陪皇女で、天智天皇の娘です。で、従兄弟の草壁皇子に嫁ぎましたが、草壁の母は持統天皇なので、異母姉妹ですが、母親同士が蘇我石川麻呂の娘で、これまた姉妹にあたるので、母系で言えば、従姉妹なんですね。
 このような複雑な家系ですが、男が早死にの血筋なのか、夫の草壁も28才、息子の文武天皇も25歳で死にました。
 そして、彼女は、結局、姑にして姉の持統女帝と同じく、息子の死後、孫(聖武天皇)の成長を待つために自ら即位したのです。
 平城遷都は女帝49歳の時でした。「君があたり」と呼びかけたのは、夫の草壁だったのか、息子の文武だったのか・・・。
2010-03-12

和気広虫

和気広虫

 和気清麻呂を出さずに、その姉さんを出すのは、かの有名な神託を受けに行くのは、もともと和気広虫の仕事だったからです。
 広虫は、孝謙女帝に仕える女官。女帝より干支一回り年下の彼女は、女帝が病平癒のために出家した時、彼女もいっしょに出家して法均と名乗りました。すでに未亡人であったし、出家した女主人のそばで尼僧になるのは都合よかったかもしれません。
 で、女帝が病を治してくれた僧侶道鏡を信頼し、彼を権力者にしたために、宇佐八幡宮から出た「道鏡を皇位に」という神託の真偽をただす勅旨に選ばれたのが法均尼・・つまり和気広虫だったのですね。
 彼女は、病を理由にこの使命を弟の清麻呂に代行させたのです。
 結局、清麻呂は「先の神託はウソだった」という新たな神託を持ち帰って、女帝を激怒させることになり、清麻呂を穢麻呂、広虫を狭虫と改名させて流罪にしました。
 この事件については、藤原氏陰謀説、女帝自作陰謀説など、いろいろあって、結局、道鏡が皇位につくということがなく、皇統は守られたとして、清麻呂は後世に英雄扱いされましたが、果たして真相は・・? 
 広虫が女帝の側近であり、代理が実弟であったということから・・なにやら、女帝近辺の事情かもしれませんね。
 奈良時代の尼僧がどのような姿をしていたかよくわからないのですが、僧侶が男なのにスカート(裳)をはいているなどといわれていましたから、女性だとやはり裳はつけているだろうな・・と考えると、高松塚風の長い衣裳に袈裟をかけた・・という感じではなかったのでしょうか? 
2010-02-05

阿弖流為

アテルイ

  阿弖流為(あてるい)は、平安初期の蝦夷。北方の勇者であります。
 たとえて言うなら、カエサルに対したガリアの英雄ウェルキンゲトリクスのような・・と言えばいいでしょうか。
 しかし、地元の地理に明るかったのでしょうが、鮮やかな戦法を用いて、朝廷軍を翻弄し、少人数で、討伐軍を敗退させた・・ということなのですが、彼らの側に立った記録はなく、朝廷側の歴史書に記されているのですから、本当は、もっとスゴイ英雄であったかもしれません。
 結局、朝廷軍紀古佐美が敗退し、ついで、東国に向かった坂上田村麻呂らと闘って、阿弖流為は敗北し、降伏しました。
 武将としての坂上田村麻呂は、彼らを京に連行しましたが、この北方の英雄を処刑するにしのびなく、地元の豪族である彼らを解放して温情を示し、北国経営のために役立てるのが得策と進言しましたが、北の地の勇猛な人々に怖れおののいていた貴族達が納得せず、結局、河内で処刑された・・ということです。
 その場所は現在では明らかではありませんが、枚方市ではないかという説があるそうで、首塚や胴塚などの伝説があり、石碑がたっているそうです。
 8世紀頃の蝦夷の軍人が、一体どのような姿をしていたのか・・とてもイメージできないのですが、さほど野蛮ではなかったのではないかと思います。
 平安時代初期の、朝廷の軍にしても、よくわからないんですしね。
 この間、京都の清水寺(坂上田村麻呂の邸宅跡)にお参りしたので、境内にある石碑を見ましたので、思いつきで・・・。
2010-01-12

検非違使の廷尉

ばんだいなごん

 昔からとてもお気に入りの絵巻物の一つ「伴大納言絵詞」は、平安末の風俗を描いてリアルです。
 実際に事件が起こった時期はかなり古いのですが、絵巻の制作年代の時期のリアルな政治ドラマ化しています。
 その中に、いよいよ伴大納言家に逮捕に向かう検非違使のいわば、実務を指揮する人物が、この廷尉(ていじょう)です。身分は、検非違使の二番目か三番目の位(じょうかさかん)にあたります。赤い着物の上に白い狩衣を重ね、背に梁を背負って、つまり飛び道具をたづさえ、馬に乗っています。
 彼の後には真っ赤な狩衣を着た火長という役人が二人、徒歩で従っています。
 勿論、武装した部下が廻りにおりますし、鎧で身支度をしたものもいます。
 この廷尉は、最終的には、罪人の処刑などにも立ち会う仕事です。
 闇の中から、この独特の赤白の衣裳が現れる・・なんとも印象的な雰囲気ではないかと思いつきました。
2009-09-06 

武内宿祢

武内の宿祢

 武内宿禰(たけのうちのすくね、あるいは、たけしうちのすくね)は、戦前ではかなり知られた人物で、たいてい神功皇后とセット・・というより赤子の応神天皇の「じいや」で登場しました。
 単独でも、お札にまでなっていた人物です。
 今でも、山車や作り物などにヒゲの生えた老人が赤ちゃんを抱いている人形があればこの方ですね。
 西洋の絵画では、赤ん坊を抱いている老人というのは、大工のヨセフ・・つまりはキリストのお父さん(戸籍上の)。
 で、ヨセフの絵を見ていて思いついた・・・この人は、もしかしたらこの赤ん坊(応神天皇)のお父さんかしら・・なんて。
 いえいえ、神功皇后が、つねに側近くにいる忠実な老臣と不倫をしたんだなんて想像をしているのではありませんよ。
 ネット徘徊をしていて、ヤマトタケルと武内宿禰は同一人物だ・・なんてのにひっかかって妄想をたくましくしただけです。
 もし、ヤマトタケルが死んでいなかったら、彼は天皇家の最長老で、モノも言える立場ですから。
 物語なので、もし、はいいとしょう。
 武内宿禰は、異常に長生きしたといわれ(360歳。ヨーダみたいですね)白髪白髯の老人に描かれるのですが、五代の天皇に仕えたなどといわず、五代分の「院政」だったら面白すぎないです?
 もっと乱暴に言えば、成努天皇(ヤマトタケルの異母兄弟)と同年同日生まれという伝承もありますので、ヤマトタケルは、成努、仲哀も、ともに別名で、本名がタケル(武)だとしたら、まさに「武」という名前の武内宿禰だ!なんてね。
 早死にするからこそ悲劇の英雄であったヤマトタケルが、とってもじいさんになって、なおかつ隠然たる実力者で、若い妻(神功皇后)との間にできた子供をにやにや眺めている図なんて・・ブキミかもしれないのですが・・。
 ここは、まあ、伝承どおり、「じいや」の図です。
2009-08-25

最澄

最澄

 弘法大師空海が出ているので、伝教大師最澄を出さないというのも、片手落ちかなあと、天台宗の開祖最澄さまです。
 肖像画は、有名な帽子(もうすと読みます)を被って端座する像から、後世のどんな肖像画も頭からスカーフのようなものをかぶっています(首に巻いてもいいそうなので、ますますスカーフだ)。
 もともとは、着物の袖の形をした頭巾で、縹色の天皇の衣の袖を賜ったことに由来するそうです。京都の比叡山の天辺では冬が寒いので、ことのほか頭の寒いお坊さんの防寒頭巾だったのですね。偉くならないと耳を隠してはいけなかったそうです。これが、天台宗の正装に取り入れられたのだとか。
 で、最澄さんといえば、なにやらふっくらした優しげな顔立ちと、この帽子(もうす)のせいで、尼さんみたいに見えるなと昔から思っていましたので、すこしやせた顔にしてみました。
 空海と同じく唐で修行して帰ってきたのですが、空海さんがなんとなく、アクションむきで、冒険小説の主人公(それも、なんだか闘う坊さん・・的な)になるような気がする行動派ですが、最澄さんは、大人しやかで、学者っぽくないですか。書のほうも、空海が雄渾、最澄が端正というのは、イメージ通りなのかも。
2009-05-29 

弥生の貴人

古墳被葬者

 久々に古墳被葬者の復元です。こういうのって、けっこう好きなんですが、厳密には古墳ではなくて、弥生時代の墳丘墓というそうです。
 京都府丹後町の赤坂今井墳丘墓の第4埋葬施設の被葬者です。水銀朱が大量に残っていて、鮮やかな朱色を呈する船底型木棺に、ガラス玉や碧玉製の頭飾りや耳飾が出土しています。
 出土状況写真や、復元図などから、この頭飾り(?)をつけた被葬者を描いてみました。
 頭頂に3連に廻る管玉と勾玉を連ねた飾りは、何か帽子やベールのようなものに縫いつけられていたのではないかとも思いますが、藤ノ木古墳のように細かなものが残っているわけではないので、玉類だけを描いてみました。勿論、髪型もわからず、服装もわかりませんが、朝鮮半島との交易をしていた豪族ではないか・・という説もあるので、大陸風の衣裳をつけていたかもしれませんので、「柄物」にしてみました。弥生時代といえば、なにやら、ものすごく古いような気がしますが、中国では、三国志の時代なのですから(卑弥呼がお手紙を出した相手の魏の皇帝は曹操の孫にあたります)。
2009-05-26

布忍入姫

布忍姫

  布忍入姫(ぬのしいりひめ)は、あまり聞きなれない名前ですが、大阪の松原に同じ文字で、布忍神社というのがあります。
 ただ、そこの祭神は須佐男と事代主、建甕槌だそうで、この姫とは関係がなさそうですが、古い地名でもあったのでしょうか。
 布忍入姫は、倭建命のたった一人の娘です。日本書紀の記述によれば、倭建には十人の子供がいたそうですが、娘といえばこの人だけですが、古事記にはその記載がないのですね。ただ、日本書紀でも、子女のところに出てくるだけで、説話がありません。
 でも、一応、正妻であろうと思われるもっとも身分の高い妻の両道入姫皇女(ふたじいりひめ)の娘で、仲哀天皇の妹にあたります(一番有名な妃は橘郎女ですが)。
 もっとも仲哀天皇自身が、かの神功皇后の夫なので、実在ではないとか言われている人ですから、やはり伝説のかなたのお姫様ですねえ。神社があるから・・というのではないのですが、思いつきでなんとなく天皇の実姉妹ということで、斎宮のような姫ではなかったか・・と想像しました。
 実はsisiさまの歴史水着アートギャラリーで、触発されたのですね。
2009-05-01

斉明女帝

斉明女帝

 またしてもイメージの飛躍です。近代の女王あるいは皇后といえば、こんなふうではないのかと、古代の女帝に洋装して頂きました。
 斉明天皇は、言うまでもなく中大兄、大海人の母であり、舒明天皇の皇后であった人です。一度目の即位は皇極天皇(第35代)と呼ばれ、二度目に即位して斉明天皇(37代)と、便宜上呼ばれていますが、本名は宝女王です。王(おおきみ)と呼ばれるのは、彼女が天皇の娘ではなく、天皇の孫娘だからですが、中大兄皇子の父である舒明天皇とは再婚で、先夫との間にも子供がいました(このあたりで、不仲であった?中大兄、大海人異父兄弟説も生まれるのですが・・)。
 日本書記によれば、二度も即位して、大土木工事をして人民を苦しめ、名目上とはいえ、軍を率いて九州まで出陣した天皇。
 虚構の中では、権勢を振るった蘇我入鹿は、この人の愛人であったとまで言われたりしているのですから、日本の女帝としては、実は、とってもドラマチックなんじゃあないでしょうか? 
 邪魔で無能な夫を排除した・・・とは思えませんが、エカテリーナ女帝にも匹敵?するゴージャスな女帝ではありませんか。
 そしてその死についても、朝倉の宮で「妖異」があった・・これも、屋根の上からあやかしが覗いたという北斉の孝昭帝(北斉のカリギュラ文宣帝の弟)の死に様にも少し似ています。
 息子の中大兄が、あまりにも「陰謀家」めいたイメージがあるので、操られていた老母だなんて思われがちですが、本当に単なる「なかつぎ」なのか・・・意外と女傑だったのでは・・などと妄想してみました。
 ちなみに同時代には新羅には善徳女王、真徳女王がおり、中国唯一の女帝武則天が皇后になったのが、斉明天皇として二度目に即位した年です。
2009-04-25
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