タナカー・ブヒクロサン(フレデリック・ブレックマン)

タナカー・ブヒクロサン

 幕末に来日した外国人の、山師的な人物の典型とみなされそうですが、彼なりに、なかなかの経歴。
 アムステルダム生まれのオランダ人で、かなり若い10代の頃に、植民地のバダビアに夢を求めて出かけ、そこで何をしていたかはわかりませんが、20歳の頃、日本の長崎に現われます。
 英国総領事のオールコックに通訳として雇われ、後にフランス公使館でも通訳になり、幕府の池田使節団の随員としてパリに向かいます。この時、一行の中にいた日本女性は、もしかしたら、彼の「妻」だったかもしれないそうです。
 再び日本に舞い戻り、色んな商売を手掛け、当時、海外で日本の軽業師などが人気であったので、そういった芸人一座に加わり、自分も日本人のマネをして、手品などをやっていたらしい。その時に、妻は踊り子として舞台に立っていたそうなので、元は芸妓ででもあったのでしょうか。
 ロンドンに流れ着き、そこでタナカー・ブヒクロサンと名乗り、日本人を数十人引き連れて、日本人村を開設。
 ここでは、日本の家屋を建て、工芸品等を実演販売。茶屋を立てて、茶菓の接待を女性にやらせる。劇場を設けてそこで芝居や手品、軽業などを演じさせ、相撲や剣の立会まで見せたそうですから、一大アトラクションつきのテーマパークですね。
詳しくは、こちらにも書いています。→タナカー・ブヒクロサン
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有職雛の女雛

雛

 明治時代初めころの有職雛の女雛です。
 男雛も顔立ちは童形で作られていますが、衣装は狩衣に立烏帽子。
 女雛は、袿(うちぎ)姿。紫の小袖に緋の袴。髪型はおすべらかしながら、前髪を垂らして、可愛らしく作ってありました。
 季節はずれですが、旧暦では・・・というか関西では、4月まで雛祭りですので・・。

指輪をした女

指輪の女

 日本の写真家の草分けは上野彦馬ですけれど、もう一人、下岡蓮杖がいます。
 この下岡蓮杖が、江戸のごく末か、明治の初年に撮った写真で、一人の女性が座っているのがあります。
 長い黒髪を、髪を後ろでまとめてくるっと回し、鹿の子で縛ってかんざしを一つ刺している簡単な髪型が印象的ですが、左手に指輪をはめているのです。
 シンプルな指輪ですが、左手薬指に一本だけ・・・なんだか、質素な生活をやりくりしている主婦みたいな感じです。
 しかし、当時だと、かなり進んだ装身具だったでしょうねえ。レトロな写真だと、色合いがわからないのですが、着物も帯も縞模様なのは、おしゃれなおねえさんだったかも。
 顔は、私風に。色合いは勿論みんな想像ですが、手をつくテーブルにかけた布は春らしく桜模様にしてみました。

「非常並旅行服」の男

旅行服

 明治維新は、王政復古し、いよいよこれから新しい日本を作るべく断行されました。
 しかし、新政府は、いわば色んな身分がごちゃまぜで、天皇に近い公家もいれば、貧乏公家もあり、武家にしたって、大名もあれば、弱小殿さま、下級武士、はたまた軍籍に身を置く元農民など、さまざまな身分がごちゃまぜ。
 そして、天皇を中心として政治をするといっても、集まった連中が、それぞれ服装がバラバラ。
 天皇に拝謁を願うには、衣冠束帯でなければならない、百歩譲って狩衣烏帽子と主張する貴族がいると思えば、大名などは大紋直垂でよいではないかというし、中流以下の武士階級の出身者は、直垂なんぞ持ってないし、豪農や、豪商では黒紋付きの羽織袴が正装で参内させてほしいという。
 いかにも見ただけで寄せ集め政府の感があるし、現に明治初年のある集合写真では、狩衣烏帽子の公家のとなりに直垂姿の上級武士がおり、洋装の外人、羽織袴の下級武士、洋装で蝶ネクタイ断髪の(洋行帰り?)日本人、チョンマゲ軍服の兵士などが並んでいます。
 これはいかんぜよ!ということで、早急に「官服」の制定が叫ばれましたが、とにかく、シッチャカメッチャカで全然決まらない。
 古式ゆかしくしたい公家方は、衣冠束帯だの狩衣だのと公家衣装にこだわり、実際に武士にもこの格好をさせると、下級武士は烏帽子など慣れないし、袖の大きなのも難儀で、とても閉口したらしい。
 第一、外国人からみたら「エキゾチック」なこの衣装はヘンだよ・・というのは洋行帰りの日本人たち。
 とりあえずは、各藩で勝手に洋装になっていた軍服から統一を図り、一般官吏にも、「非常並旅行服」というものが、明治3年に制定された。絵図によると、黒羅紗の詰襟で、金釦、紫の組紐の肩章がつき、袖の装飾で身分が決まっていたらしい。
 これは、「旅行」というのは、国内ではなく、海外に出張するときに、和装では不便であろうということで、やや軍装よりのスタイル。 のちの話になりますが、岩倉使節団が出発するときに、三条実美が「おくる言葉」の中で述べた、
  万里馳駆 英名を四方に宣揚する
 という気概を持って洋装した明治官人のユニフォームとして考案された。。
 
 それの絵図をもとに復元してみました。
 明治の服制についてはこちらにも書いています。

明治の貴婦人

明治の貴婦人

 明治時代の女性の正装「白襟紋付」姿の女性。
 鹿鳴館時代に、女性の参加が少なくて悩んだ政府は、洋装でなくてもよいと規制を緩めると、こういった紋付姿の女性の参加が増えたそうです。海外に留学していたことのある女性ならともかく、当時の日本人の女性は、身分の高い人でも、身体の線のあらわな洋装は二の足を踏んだことでしょう。
 明治のころの着物は地味で、地色は鼠や納戸色といった緑がかったグレーのようなのが流行ったのですが、裾模様も、ほんの少し裾周りに散らすといった、今から見ればかなりシブイ模様でした。
 輸入染料が入ってきて鮮やかな色合いが染められるようになって、だんだん色合いも華やかになり、大正ロマン、昭和モダンと言われる華麗な着物が登場してきました。
 女性の正装「白襟紋付」についてはこちらに少し書いています。

内田九一

内田九一

 年初は晴れ着を着て、写真館で写真をとる・・・。こういうのは、最近あまりききませんね。
 小学校の入学式、成人式くらいでしょうか? あとは結婚式。
 そういった肖像写真が始まったのは幕末明治。
 日本の明治の写真家の草分け的存在の写真師の一人に内田九一がいます。
 写真師といえば上野彦馬が有名ですが、内田九一は、長崎で写真術を学び、上野彦馬の弟弟子にあたります。
 しかし、彼自身の名前より、彼の撮った写真はとても有名。
 社会の歴史の教科書では、必ずおめにかかるかの、「明治天皇」の軍服姿の写真を撮ったのが内田九一です。
 そして、ちょっと詳しい歴史の教科書では出ている木戸光允の羽織袴にチョンマゲの写真。あれも、内田九一。 
 ほかにも、彼の被写体になった人たちは有名人が多い。
 そんな、売れっ子写真家であった内田ですが、あまりに忙しすぎたのか、写真師の仕事としては絶頂期であった明治8年に病死しています。彼の死後、妻のおうたが、大阪に戻って弟子と一緒に写真館を開業したそうですが、今も大阪には内田写真館ありますが、系譜はおなじでしょうか?
 彼の経歴や被写体の方がたについては、こちらの「座乱読無駄話日記」でちょっとふれています。
 

福沢諭吉

福沢諭吉

 いまさらながら、お札にもなった有名人です。
 ただ、見慣れた着物姿でもなく、アメリカ女性と、ツーショットのチョンマゲ姿でもない洋服の福沢さん。
 慶応三年にアメリカから帰ってきたばっかりの福沢さんが、これからの時代は西洋だ!ってことで、西洋衣食住という本をだし、その中に、初めて洋服を、丁寧な絵入りで紹介しています。
  このころ、ご本人も西洋装束をして、西洋乗馬をしていたらしい・・ということで、洋服を着て乗馬ブーツをはいた写真があります。
 写真ですから、色は勿論わからないので、無難なところで無彩色にしてみました。
 撮影されたのは、浅草あたりにあった内田九一の写真館であろうと思われます・・というのも、この寄り掛かっている肘掛?が色んな人の写真に出てくるからです。
 この時代に写真を撮ろうと思ったら、限られた場所しかなかったのですから、どうしても同じ場所になり、その小道具や背景で、時代考証が出来るというのは面白いですねえ。
  この肘掛と背景の壁は色んな有名人の背景となっています。
 内田九一については、また次の機会に。
 
 で、諭吉さんとその洋服などについては、こちらの無駄話日記にちょっと書いています

 こちらもよろしく。

   座乱読無駄話日記
   座乱読ー別荘ー (こちらはほぼ毎日更新を目指しています)

井上勝(野村弥吉)

井上勝(野村弥吉)

 明治5年に新橋・横浜間の日本初めての鉄道が開業した日ということですが、日本の鉄道の父として知られている人物は井上勝
 長州藩の出身で、かの長州ファイブの一人です。
 渡英の時は21歳。最年少でした。
 留学時は野村家の養子になっていたので野村弥吉を名乗っていました(英国ではnomuranと呼ばれていたようで、本人は酒飲みだったので呑乱と当て字をしていたとか)が、明治になって実家に戻っています。
 もともと蘭学を学んでいた実父から海外事情などを聞かされており、12歳(中学1年生年齢)の時、横須賀で沿岸警備任務に就いた父に同行、15歳(高校1年生年齢)で長崎で洋学を学び、江戸の蕃書調所、函館と航海術を学ぶ間に、横浜に通ってイギリス人から英語を学んでいたという、当時としては目的を持って勉強をしていた若者ですね。
 で、形としては密航とはいいながらひそかに藩命をうけていた海外留学ですから、選ばれるのは当然という人選だったかも。
 ジャーディン・マセソン商会のあっせんで、上海からイギリスに向かったのは文久3年(1863)というのは、有名な話です。
 英国での留学期間は5年で、本人としてはもう少しおりたかったようですが、日本で政変(明治維新)がおこり、帰国を余儀なくされましたが、いわば、高校卒業後、大学と大学院という年齢をロンドン大学(ULC)で学んだのですから、最も効率のいい年頃だったかも。
 帰国してからは必ずしもすぐに鉄道事業に入っていたわけではないのですが、日本に鉄道を敷きたいという政府の重要会議などで英国人との交渉の場の通訳を務めたということから、次第に鉄道事業に係わりをもつようになったのですね。
 その後、関西での大阪・神戸、大阪・京都間の鉄道事業も彼の仕事です。
 以後、鉄道のプロフェッショナルとして活動しますが、晩年は関西で汽車会社(現在の川崎重工につながる)を設立し、汽車車両の生産もやっていましたが、明治43年(1910)に日英博覧会と、ヨーロッパの鉄道視察ために渡欧したおり、ロンドンで客死ました。
 礼服を着た華族然とした写真や、長州ファイブのスーツ姿なども有名ですが、あえて、鉄道敷設工事の姿をした若い技術者風の写真から描いてみました。顔は全然似ていませんのは、なんとなく勢いで。髪の毛も逆立ってしまいました。気迫にあふれていたのかも・・?
2015-10-14

五姓田義松

五姓田義松

 高橋由一とか浅井忠とか、明治の洋画家としては時々名前を聞きます。
 勿論、黒田清輝とかになると、絶対教科書に載っているし、作品と名前が一致します(高橋由一は、壁にぶら下がった鮭の絵だけしか思い浮かばないかも・・)。
 ですが、五姓田義松はあまり聞かないような気がする。
 宮廷画家だとかいう名前を冠して呼ばれることもありますが、もともと日本には、西洋でいうような宮廷画家はいないわけで、明治天皇の肖像画とか天皇に随行していろいろな場面を絵で描いていたということならば、この人が日本最初の宮廷画家かもしれません。
 父親の五姓田芳柳とセットで述べられていることもありますが、この親父さんがもともと歌川国芳のもとで修業した浮世絵師であり、狩野派にも学び、疑似洋風画から洋画も描き、横浜絵というジャンルの創始者といわれているので、とっても面白い人です。
 この父に画才をかわれて10歳の頃に画家であり漫画家でもある英国人チャールズ・ワーグマンに師事し、洋画の基礎を身に着け、19才で図画教師、工部美術学校でイタリア人のアントニオ・ファンタネージに師事するも退学して、明治天皇に随行する「宮廷画家」になったのが23歳。
 そして25歳の時、1880年に、本場パリに留学。
 レオン・ボナに師事します。相弟子にロートレックなどというと、なんとなくパリの雰囲気がしますね。
 日本人ではじめてサロン・ド・パリに入賞しましたけれど、画家の常で貧乏で、いつも借金していたなどと言われています。
 パリの水があったのか、あるいはお金がなかったから帰国できなかったのかわかりませんけれど、1889年までパリで過ごします(この年の三月にエッフェル塔が完成していますが、彼は見たのでしょうか? 同じ年にロンドンからニューヨークに行っているので、どうなんでしょうねえ)。
 帰国して、日本の美術振興のために努力もし、日清戦争の従軍画家もしたようですが、その後、日本での華々しい活躍という雰囲気はありません。
 彼の画風が、当時の日本にはあわなかったのでしょうか?
 でも、もっと日の目を見ていいんじゃないかなあって思いますが。
 昨年、この画家の作品をたくさん所蔵している神奈川県立博物館が展示会をするようですが。
 彼の色彩の絵画も面白いのですが、自分の顔を百面相で描いたいわゆる「へんがお」コレクションみたいな素描が面白すぎます。
 左右附対象の変顔で・・・。背景はエドワード・ジョセフ・ダンタンのまさしく1880年のサロンド・パリの絵を張り付けてみました。
2015-08-28

五世尾上菊五郎

五世尾上菊五郎

 「明治キワモノ歌舞伎ー空飛ぶ五代目菊五郎」(矢内賢二・白水社)を読みまして、その大胆にして、新鮮な明治の歌舞伎「現代劇」が大層面白かったんですね。
 とくに、サーカス団の出し物や、気球パフォーマンスなどほんまにすごいキワモノ(際物)をやってたんやなあって、大感動!
 明治19年に日本にやってきたイタリア人チャリネ率いる「チャリネ大曲馬団」が話題になると、歌舞伎もいち早く「鳴響茶利音曲馬(なりひびくちゃりねのきょくば)」を舞台にあげ、菊五郎は、なんと、チェリネ、象使いアバデー、一本足の曲芸師ハーバーの一人三役!写真がのこっているのですが、そんなものでは、きっと舞台の面白さはちっとも伝わらないかも。むしろ錦絵のほうが雰囲気がでているかもしれませんねえ。
 そして、極めつけは風船乗りのスペンサー
 明治23年に、イギリス人のパーシバル・スペンサーが来日。
 横浜で、気球に乗って空高く上昇し、パラシュートで降りてくるという、当時の日本人にとっては前代未聞の大スペッタクルな見世物興行をしました。
 あまりの人気ぶりに、とうとう皇居で天覧「飛行」をやり、このとき、緊張のあまりか、スペンサー氏パラシュートの着地に失敗してお堀に落っこちるというハプニングつき。天皇皇后は、ちっとも気にしないよと寛大なお言葉。
 この面白いパフォーマンスを見逃す手はないと、早速歌舞伎に仕立て、その名も「風船乗評判高閣(ふうせんのりうわさのたかどの)」。
 洋服姿もきりっとして、舞台中央で、一礼して山高帽から鳥打帽にかえて、いよいよ風船のりです。
 宙乗りはアクション歌舞伎のお家芸ですから、ずんずんと舞台の上を上がり、さっと書割が青空になるとスペンサー氏ははるか上空で小さくなんている。これは、子役に菊五郎と同じ扮装をさせて、うんと高いところにつるしていたそうです。
 そして、地上におりたったあとは、颯爽と登場し(お堀には落ちません)「れでぃすあんどじぇんとるまん あいはぶびーんなっぷ あとりすと すりーさうざんど ふぃーと」と、外国人そっくりの仕草で演説したそうです。
 風船のり、あるいはパラシュートで降りてくる姿は、錦絵があるので、写真にある鳥打帽をかぶろうと挨拶するスタイルで。
 英国人になりきっている五代目です。
明治キワモノ歌舞伎 空飛ぶ五代目菊五郎
2011-07-06

養蚕の女官

ようさん

 明治になって、近代国家への道を進むために殖産興業が叫ばれ、近代的な工場による産業が興りましたが、その中に伝統的な絹の生産がありました。有名なところでは富岡製糸工場ですが、生糸が重要な産業となる始まりはもともとの産地であった上州・・すなわち群馬県などの養蚕を組織的にやったものです。
 宮中にも養蚕所を設け、産業のお手本のなるべく皇后が率先して伝統の養蚕を復活した・・ということですが、このとき女官とともにお手伝いしたのが上州の女性たちであったそうです。
 この宮中養蚕を描いた錦絵があります。初めの頃は緋の袴をはいた、いかにも女官という女性が描かれていますが、明治も20年をすぎると、近代産業としての生糸生産がイメージとして定着してきたのか、「宮中養蚕」の絵も洋装した女官たちが登場します。
 そのような女官の中から、椅子に腰掛けて(これもまた近代化です)いる女性を取り上げてみました。傍らには天皇と皇后のお二人がこの養蚕の作業を眺めておられる・・といった絵柄ですが、天皇の姿は典型的な軍装の明治大帝のスタイルです。
 女官たちは、バッスルスタイルのドレスですが、絵師が苦心のレースやひだひだが、なかなか面白いです。色合いは緑と朱色、赤というのは、どこか十二単の色彩にも通じるような気がします。髪飾りは葉のついた椿のような花ですが、薔薇かも? 
2009-04-30

文明開化の煉瓦職人

レンガ職人

 明治の文明開化の時代には、一時にあっと言うほど色々なものが日本に入ってきました。そのなかで、皆が驚いたのは、蒸気船や、丘蒸気も勿論でしょうが、やはり斬新な西洋建築でしょう。
 江戸が東京都なり、噂にしか聞いたことがない、倫敦や巴里のような洒落た町並みに変貌して行くのは大きな驚きであったはずです。
 そのような建物の代表はやはり煉瓦でしょう。煉瓦職人は、江戸の左官屋や大工と違い、おしゃれな装いで仕事をしていたみたいですね。「風俗画報」に、麦わら帽子!にズボン。革靴、白いシャツで作業をする煉瓦職人の親方の絵があります。江戸前に、半纏や股引、豆絞りの手ぬぐいを頭にまく大工の棟梁などとは一味違ったのでしょう。
2009-04-23

呉服屋の御客

呉服屋の客

  (引札シリーズ?は、そろそろこのへんでやめなくては・・・。)
 と思いつつ、今日もまた引札の絵柄から、流行のスタイルをした「呉服屋の客」です。
 今でも、「流行」というのが「ファッション」が第一番であるように(当たり前だ・・)、近代にも、アパレル産業がやはり流行の先端だったでしょう。特に女性が着るものに敏感なのはいつの時代にも同じこと。
 ただ、男性が、官員(公務員)や、商人(ビジネスマン)などが、政治的な意図もあって、いち早く洋装を取り入れていったのに対し、女性は、鹿鳴館などで上流階級の人が特別に洋装を始めた以外には一般的にはほとんどが着物姿でした。
 しかし、今の和装では当たり前のようになっている華やかな色彩や柄などは、近代産業の技術と繊維の発展によって生まれたもので、明治末年からのものですので、芸術作品のような染物それ自体が近代化の象徴であったでしょう。
 今、礼装と呼ばれる紋付袴や黒留袖などが「正装」と定められたのは昭和の初めですし、黒い喪服も大正を過ぎてから次第に一般化したものです。
 さて、呉服屋の客のカップルは、男性は和服の上にとんび(二重回し)というコートを着て帽子を被っています。とんびは、インバネスコートを、着物の上に着られるように改良されたもので、新しい「和装」ですね。女性はぼかし染めの御高祖頭巾に、長い和装コートで、これまた最新ファッションです。
 御高祖頭巾といえば、もともとは身分の高い僧侶がつけていたもので、この名がありますが、女性の間に爆発的に流行したのは明治11年以降だそうです。
 もとは袖頭巾として着物の袖の形に布を縫って防寒用に被っていたものですが、明治になって、一枚の布を使って首の廻りに巻きつけたおしゃれアイテムになりました。色鮮やかで様々な文様の風呂敷があらわれるのも、この頭巾の流行が引き金だったといわれています。
 ほかにも、着物の襟元にくるくると布を巻きつけたスカーフ様のあしらいや、西洋人のストールをまねたいわゆるショールをつける女性などが、呉服屋の客の中に出現しています。
2009-04-15

「安心散」のモデル

あんしんさん

 またまた引札ネタです。
 男性は洋装をして地球規模で走り回った活躍するという時代。女性も時代の変化に、大層心理的にも激動の時代であったでしょう。
 「安心散」というこれまた薬の宣伝の引札ですが、この薬は「産前産後ノ気付ケ、男女逆上症ニ良効ナリ」と書いてあります。産前産後は、婦人薬としてはわかりますが、男女逆上症というのは何だろう? 多分、精神安定剤なのでしょうね? 女性が出産に伴に精神的な不安定な状況になるように、男でも女でもすぐにカッとしたり、イライライしたり・・・。激しい時代の変化のストレスは「相当なものだったかもしれません。「男女」という表現に、「ヒステリーは子宮の病気だ」と言っていた西洋の医師より、公平のような気もしますが・・・。 もっとも「安心散」という薬は江戸時代の富山の薬売りの目録にも載っているらしいので、かなり古い薬ではあります。
 引札の女性は、浮世絵風でありながら、髪にリボンや造花をつけ、「新聞」のようなものを読む新しい女性像です。
2009-04-13

文明開化の紳士

文明開化の騎馬紳士

  幕末から明治初年にかけて作られたコマーシャル用の印刷物に、引札というものがあります。
 今で言う、チラシとかポスターの類ですが、一目を引き、商品を売るためのものですから、その時代の空気を敏感に反映しています。
 ある明治の引札で、その名も「文明丸」という薬の宣伝には、フロックコートにシルクハット。クラヴァットを風に靡かせて馬に乗って地球をかける錦絵風の紳士の絵があります。
 まさしく、明治の初年の人たちがイメージした最先端だったのでしょう。たとえその姿が、武田信玄のような騎馬武者風であろうと、走っているのはなにしろ、地球! 世界をまたにかけているのですから。
 その末裔が「二十四時間、闘って」バブルがはじけ、生産過剰に陥って、大不況を迎えるとは、ご先祖さまは想像だにしなかったでしょう。
 ちなみに、「文明丸」の効能は「気付け、霍乱、吐しゃ、腹痛、めまい、食傷、歯痛等・・」だそうです。多分、消化を助ける薬なのでしょうね。クレオソートのような・・?
 手に持つ、商品名を書いたチラシ?を省略して描いてみました。
2009-04-12

市松人形

市松人形

 江戸時代の役者佐野川市松が、人気で、彼が来ていた着物の柄が、市松文様として流行しました。
 顔が市松に似ているということからか、子供の抱き人形が市松人形と言われるようになった・・とは、実はよくわからないそうです。
 しかし、江戸末から、明治・大正・昭和と、子供人形の名品が作られ続けました。今尚、日本のアンチックドールとして人気があります。私も、子供の頃、着せ替えの出来る、手足の動く、いわゆる三ツ折れ人形のようなものを持っていましたね。胡粉ぬりの顔と、ガラスの義眼の入った目はとてもリアルでした。雛祭の時には、着飾らせてひな壇の横に飾ったりしていました。
 市松人形は、女の子の人形が多いのですが、今回は、正装をした男の子の人形から描いてみました。神は植え込まずに丸坊主で、筆描きのものもありますが、髪を切りそろえた童子の姿です。
2009-01-03

山下りん

山下りん

 明治時代の日本人初の女流イコン画家です。
 山下りんは、本来、イコンを描きたいと思っていたわけではなく、普通の西洋絵画を勉強したかったのです。
 彼女は、絵を描くことがなにより大好きな少女で、それだけならどこにでもいそうですが、時代は幕末明治の頃、常陸の地方藩士の娘で、あまり美人でもないので、山の中の農家の嫁にでもやろう・・などといわれていました。
 どうしても絵があきらめられない彼女は、一大決心をして、15歳で家出をして東京に向かいますが、すぐに連れ戻されます。しかし、彼女の意思は強く、家人を説得して上京、親戚の家に身を寄せ、次々と浮世絵や狩野派の画家に弟子入りしますが、日本画に見切りをつけ、最終的には洋画を目指します。
 おりしも、工部美術学校の試験があり、合格してしまった彼女を、元藩主の子爵が援助してくれることになり、晴れて画学生になりました。この時の教授がイタリアの画家フォンタネージで、大いに影響を受けたようですが、彼が帰国し、後任の教官が、彼女に言わせると「大ヘタ」だったことから、学校には不満がつのります。
 当時、学生仲間の一人が、ハリストス正教会で洗礼を受けていたので、彼女もまた洗礼を受け、イリナの名を持っていましたが、ニコライ神父が、日本人のイコン画家を養成したいと考えていたこともあって、ロシアにイコン画修行の留学をすることになるのです。
 大ロシアの都ペテルブルグでの修行なのですが、女子修道院にこもって、陰気臭い?おばさんたちに型にはまった(彼女いわく)「ヲバケ画」イコンの描き方を教えられる一方で、エルミタージュ美術館に通いつめて華麗なる西洋絵画の大作が見ることができたのは、夢のようであったでしょう。
 しかし、ドラマチックで動きのある、ラファエロのようなイタリア絵画に傾倒した彼女と、あくまで厳粛な聖画のイコンを描くプロになる修行では、神経がまいってしまい、ついに2年半で帰国します。
 帰国後、日本では、プロのイコン画家として数々の作品を描きます。イコン以外には、西洋の翻訳物の挿絵なども描いていますが、本当に描きたかったものは、もっと違うものであったような気もしますが、もし普通の洋画家になっていたとしたら、どのような絵を描いたのでしょう?
 ペテルブルグ修行時代のおもむきで描いてみました。背景は、彼女がエルミタージュで模写をした画家の一人、グイド・レーニの絵。この絵によく似た構図の洗礼図が、彼女のイコンにもあります。
2008-06-04

木嵐の精

こがらし

 行ってきましたよ、河鍋暁斉
 まあ、予想通りというか、平日なのにそこそこ混んでいるのは、やはり宣伝効果でしょうか。本邦初公開というのに弱いのですね。で、あちこちで資料をあさっていたおかげで、おお! これは! というくらい、ビックリするほどの絵柄はなかったのですが(ビックリしたというなら、曽我蕭白は、現物は本当にド迫力でしたが)、意外と大胆にみえるけれども、けっこう繊細な絵を描く人だなというのが正直なところ。
 下絵がたくさん出ていたのはとても興味をひかれましたが、画家本人にとっては、下絵というのは、あまり派手に公開して欲しくないものでしょうね。なにしろ試行錯誤が丸見えだもの。
 きりはぎした集合図とか、人物を別々に描いて後で顔だけ貼り直したとか・・私などが、常日頃、画像ソフトでやっているバランスの崩れた絵の修正と、描き直し、貼り付けなどと、さほど変わらない作業を、この大画家がやっているのかと思うと、ちょっとほほえましい。
 漫画ミュージアムのほうでやっている暁斎漫画という展示も見たかったのだけれど時間の制約があってそちらは断念。まあ、およそ想像のつく図柄だと思うので・・。
 で、今日は暁斎の若い時代の画帳に「木嵐の精」(木嵐は、こがらしと読むのでしょうね。普通は木枯しですが・・)とあったのが、何故かブロンズィーノの「ヴィーナスの寓意画」の背景にいる「快楽」の少女図を思い出してしまったので、私なりに描いてみました。鳥の羽を生やし、身体に木の葉の蓑をまとった少女の姿をしています。 
2008-04-22

有栖川宮熾仁親王

有栖川宮熾仁親王

 やっぱりこの人だとこれでしょうか。

♪宮さん 宮さん お馬の前でひらひらするのはなんじゃいな♪

 公武合体の政略のために、婚約者の皇女和宮を徳川に奪われ、倒幕の旗頭となり、徳川を討つために江戸に攻め上る・・なんてドラマチックな展開ですが、最後の将軍の徳川慶喜が和宮を奪ったのではないし、慶喜は、母親が有栖川家のお姫様なので、従兄弟同士。もともと、従兄弟の助命も頭の中においていたのかもしれません。
 明治になってから、慶喜の妹を妃に迎えています。
 明治初年の西方の反乱には常に総大将なので、ある意味、日本古来の「戦う皇子」(倭建命や、吉備津彦、久米皇子、大海人皇子などたくさんいます)を再現した人でしょうか。しかも、ヨーロッパやアメリカ、ロシアにまで歴訪していて、皇室外交のさきがけでもあるようで、行動派の貴人です。
 有名なお公家スタイルの写真がありますが、あれではなくて、中年になってからの軍人姿にしてみました。
2008-01-24

設計技師

設計技師

 幕末に黒船が来航してからのてんやわんやが、明治維新ということになり、いよいよ日本が文明開化をしなければならない時代になってきました。
 明治6年(1873年。ペリー来航から20年後)に、文部省が、学校や家庭での教育の補助教材として頒布した「教育図」が残っています。その中で、20枚ほどの建築工事の図集がありますが、その「衣食住の内家職幼絵解之図いしょくじゅうのうちかしょくおさなえときのず」のトップにくるのは、設計技師。
 なにしろ、文明開化のこれからは、家作も合理的にやらねば・・ということでしょうか、施主とおぼしき人や、いまだちょんまげの大工の頭の見守る中で、机の上で用具うちそろえて、やおら図面をひく設計技師。
 伝統技術は、ほとんど江戸時代からのもので、職人もちょんまげ半纏など、昔ながらの姿ですが、設計のような職業は、さすがに新しいのか、ざんぎりあたまの技師が描かれています。
2007-11-09

幻太夫

幻太夫

 明治の遊女というものは、どのようであったのでしょうか。江戸の遊郭の面影を残しながらも、時代の変遷に敏感に反応したかもしれません。
 まるで、江戸初期の粋な遊び女のように、前髪を左右に分けて垂らし(あるいは、男性の断髪を意識したのかもしれませんが、前髪の長い書生風?)、高く結んだ髪を髷にせずにたらした髪型は、かなり新鮮なものではなかったでしょうか。そして、なにより、着物の大胆などくろ柄。明治版メメント・モリでしょうか?
 月岡芳年の絵に見える東京の大松楼の遊女で、画家自身もひいきにしていたという幻太夫(この源氏名も粋ですねえ)を描いてみました。
2007-07-09

桐野利秋

桐野利秋

 名前のひびきといい、その波乱万丈の人生といい、なかなかに人気のお人です。
 人斬り半次郎と呼ばれるほど、剣の腕が立ち「最後の侍」めいているかと思うと、なかなかの伊達男で、洋装が似合いそうではありませんか。戦場でもフランスの香水をつけていたという話まであります(そういえば、土方歳三も最後の侍めいていて、洋装が似合いましたね)。
 勝ち目のない戦いながらも、西郷とともに、達観して死んでいったというところにも魅力があるようです。勿論反逆者ですから、政府は悪人扱いをしようとしますが、庶民の間には人気で、芝居や錦絵などでも、豪傑で大物(実際に大きい人だったようですが)西郷によりそう、カッコいい副官のイメージです。
 月岡芳年描くところの芝居絵がなかなかサマになっていたので、マネをして描いてみました。
 なお、桐野さんについても、郎女さまの郎女迷々日録 幕末東西に、くわしい記事がありますので、どうぞ。
2007-04-18

新納武之助

新納


 新納(にいろ)氏は、島津家の一族で、薩摩藩の重臣です。その一族の1人が、幕末に、パリ万博に参加した薩摩藩の使節にいて、つぶさにヨーロッパの現実を目にします。これからは西洋文化を学ばなければ!の強烈な思いにとらわれたのか、一大決心をして自分の息子をヨーロッパに留学させます。
 それが新納武之助。父の情熱で、わずか10歳で渡欧。今で言えば小学校の4年生。日本のために、先進のヨーロッパの学問をして帰って来い!と言われて勉学に励むのです。
 しかし孤独な在欧の間に里心ついても、父は「学問を究めるまで帰るな!」と涙を呑んで言います。なにしろ、今と違って、経済的にも時間的にも、ほいほいヨーロッパを往復できないので、夏休みにちょっと帰省というわけにはいきません。
 彼は明治6年に岩倉使節団などでどっさり現れた日本人の集団に出会って、急に里心ついたものか、その翌年、帰国したそうです。
 しかし10歳から17歳の多感な時代をパリで過ごして、当時の日本人としては必須だった漢文や国語もちゃんと勉強しておらず、かといってフランス人でもないわけで、一体どのような人格形成をしたのか。故郷を離れて幾千里・・巴里の都で、彼は何を思っていたのでしょうか。
 彼のエピソードは郎女様の「郎女迷々日録 幕末東西」の「セーヌ河畔、薩摩の貴公子はヴィオロンのため息を聞いた」で詳しく書かれていますので、見て下さい。
 実は、この絵を描きたいなと思ったのは、これを読んだからで、郎女さまから武之助の写真を送っていただいて参考にしました。かなり、「私ふう」になっていますが・・。
2007-04-14

明治の女官

明治の女官

 神宮外苑の聖徳絵画館は、建物も、大正時代の建築で面白いのですが、明治天皇夫妻の事績を顕彰するために、歴史的場面を描いた大きな絵画が80枚、時代順に展示されています。
 歴史の教科書に登場するおなじみの大政奉還の絵や、場合によっては岩倉使節団の出発風景などもしばしば取り上げられていますが、このような有名な絵ばかりでなく、文明開花の世になって皇后も色々な仕事をされるようになり、つき従った女官の姿も絵には描かれています。
 明治の初め頃には、おすべらかしに緋の袴のいでたちで、赤いハイヒールを履いているのが面白いのですが、明治42年の鑑菊会の絵では、皇后も女性皇族も、女官も全て洋装になっています。
 新旧の姿を二人並べてみました。  
2007-03-10

森鴎外

おうがい

 昔、教科書に「舞姫」が載っていまして、狂乱のエリスが印象的だったのに、あとがきで、作者の「自伝的」小説だという解説がありました。
 そして、森鴎外といえば、何故か教科書や参考書にのる写真は、ほとんど髪のない丸坊主の横顔で、髭がぼそぼそ生えたおじいさん。
 乙女心に、どう考えてもエリスの「恋人」には見えず、いたく失望したのです(鴎外先生! 失礼します)。しかし当然若い頃はあったわけで(髪もあったでしょう)、20代の写真をもとに、多少とも、そのエリスとの恋愛時代のイメージに近い画像・・というものを描いてみたわけです。ちっとも似ていませんが・・。
2007-03-04

フェノロサ

フェノロサ

 アーネスト・フランシスコ・フェノロサというアメリカ人の美術史家が、モース(大森貝塚の発掘で有名)の紹介で日本にやってきたのは明治11年。
 岡倉天心とともに美術学校を設立に努力し、日本美術を愛好するあまり(ま、日本美術は海外で高く売れたので、お金儲けという一面が外国人にはあったのは確かですが・・)、海外にも持ち出してしまったことはともかく、彼が、日本美術を世界に紹介する上で重要な人物だったことは間違いないでしょう。おかげでボストンにいまだ沢山ある日本美術は今尚、刺激を呼ぶのですが、実質彼が日本にいたのは12年程ですが、その12年間がその後の美術界に与えた影響は、多大なものでしょう。
2006-10-29

エッセル

エッセル

  明治政府のお雇いガイジンにはとても色々な人がいますが(たった11ケ月しか日本にいなかったのに有名なことこの上ないクラークさんとか・・)、オランダ人のジョージ・アルノルト・エッセルは治水技術者として来日しました。
 あちこちの川の調査をやっていたり(淀川も来たそうです)、福井の三国港の改修工事などもやりました。そして、なにより珍しいのが、三国の小学校の建物「龍翔館」で、こうもり傘の洋館といわれ、五層八角の色ガラス貼りの摩訶不思議な建物で、上の塔に天狗が住むといわれたそうですが、構造上の欠陥があったのか寿命35年であったそうです。
 この人物の息子が、かの奇想画家エッシャーです。そのエッシャーが描いた90歳にしてまだまだ探究心旺盛な父親の絵を描いていますので、それをもとにしてみました。別に騙し絵ではありません。
 
2006-09-29

メーチニコフ

メーチニコフ

  「わたし、レイ・イリイッチ・メーチニコフ。メーチセイフの助っ人ガイジンね。
 私の家、ロシアで有名、トルストイの小説にも出たね。わたし、ロシアで決闘して国にいられなくなった。日本でいうローニン、脱藩浪士みたいなものよ。イタリアでガリバルディの赤シャツ隊入って副官した。戦闘で片足なくした時、フランスの作家、アレクサンドル・デュマいうひと取材にきたね。
 パリコンミューン支援でパリに行った時、極東の国日本の「革命」の話きいたね、大変興味もって日本語習った。イワーオ・オオヤマいう日本人、顔のデカいまるっこい男、私に日本語教えてくれた。私彼にフランス語教えたね。その頃、キドさんいう日本人にあった。イワクラ使節団の人ね。
 私、すごく日本に行きたくなったね。イワーオ、国にサイゴーさんいう偉い人学校作る計画あるので、教師募集してる~、紹介状くれた。で、私日本に来たね。
 ヨコハマついたら、サイゴーさん失脚してた。私途方にくれたよ。で、イワーオの友達のタカサキさん言う人尋ねたら、文部省の学校教師なんとかなるかもしれん言うね。文部省の長官キドさん,私やとってくれたね。そこで、わたし、明治政府のお雇いガイジンになったね。日本の年号で明治7年だった。」
2006-09-24

田辺朔郎

たなべさん

 疎水といえば、京都は南禅寺の裏にある、ちょっと西洋風なレトロな水道橋で、レンガの色合いもよくて、なかなかの観光スポットです。
 この琵琶湖疎水を作った人物が田辺朔郎です。
 明治の文明開化の世に、琵琶湖から京都に水を引くという大計画を立案した卒業論文を書いた工部大学校の学生がおりました。その卒論を信じた当時の京都府知事が、この学生が卒業するや、すぐに採用し、本当にこの疎水計画を実行させたのです。そして、その期待にこたえて全てのだんどり、つまり設計から資材の調達、運搬などの雑務を全てこなし、5年の歳月をかけて疎水を完成させます。
 そのような若い者に工事を任せた知事も太っ腹なら、何の経験もないのに、全てを自力で研究、完成させた田辺君もスゴイ。おまけに、この工事は英国のテルフォード賞という優秀な土木工事に送られる賞を受けたのです。まさしく、明治人の面目躍如というところ。
 実年齢はともかく、今の大学生の卒論や、新採社員がいかに役に立たないか・・などといいたいわけではありませんが、あの時代の日本人の「世界に遅れるな」という気概が違うようです。
 京都府に採用された当初であろうという写真が残っていますが、まだ二十歳そこそこというのに、口ひげをはやし、せいいっぱい「大人」を演出しているように見えませんか? 当時は皆大人になりたがったのです。
2006-08-28

町田久成

町田久成

 上野のお山をめぐる攻防戦は彰義隊だけではありません。実は、明治6年からはじまった密かな「上野戦争」の主人公は町田久成君。
 彼は薩摩藩の名家に生まれ、昌平校に学び英国に留学したエリートですが、英国滞在中、大英博物館を見て「いつかわが国にもこのようなものを・・」との思いを持ちました。外交畑から転身して、内国博覧会事務局長となりました。
 当時、上野のお山は焼け野原となった寛永時の跡地をめぐって公園を作りたい東京府と学校を建てたい文部省がゴチャゴチャモメて、文部省が半分に居座ったのです。ところが、この広大な地に目をつけたいたのは町田君。この上野のお山に世界に誇る博物館を建てたい!
 そこで、文部省と交渉をはじめ、紆余曲折を経て、上司の大久保利通なども引っ張り出して、ついに上野のお山を全部手に入れることになり、今尚、彼の功績を称えて東京国立博物館が堂々とそびえておるわけです。ちなみに文部省は追い出されて本郷にうつり、そこに学校を建てました。
 写真では、七三別けのフツーな髪型なのですが、書生風の真ん中別けで前髪など垂らしてみました。このほうが彼の「意思」があらわれていると思い・・・・ません?
※「明治博物館事始め」椎名仙卓・思文閣出版
※「博物館の誕生―町田久成と東京帝室博物館」岩波新書
2006-07-16
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Author:乱読F
歴史上の人物を沢山描きたい・・。
実在・架空2000人描き

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