セバスティアン1世

セバスティアン一世

久々の洋物です。いわゆる「天正カルタ」のキングのスタイルで、ポルトガル王セバスティアン1世です。
 というのも、お正月の定番、絵カルタ(「百人一首」もふくめて)、のルーツというのはどうやら、ポルトガルのトランプのごときもの)がもとになっているらしい。
 通称天正カルタとはいうものの、必ずしも天正時代のものという意味ではないようです。
 で、日本でそれが発展して「うんすんカルタ」というものになったというのは、あちこちで目にするのですが、そもそもポルトガルのカードゲームとはどんなものか。
 絵札は、おおよそトランプに似ていて、タロット系のものと、ドイツで4種の文様があらわれ、15世紀頃イタリアで剣・棍棒・杯・貨幣の4つのマークが現れ、後にこれらがハート・ダイヤ・クラブ・スペードにとってかわった・・というものです。
 この剣(貴族)、棍棒(農民)、杯(聖職者)、貨幣(商人)の文標がポルトガルカルタにも踏襲されていたというのですが、今のジャック、クイーン、キングにあたる絵札が、乗馬姿の騎士ドラゴンと戦う女性座する王のスタイルです。
 この初期のポルトガルかるたのキングは、現在のトランプの絵札のように、キングが、有名な王様が割り振られるように、堂々とした壮年ではありません。腰かけているものの、なんとはなしにかわいらしく、少年っぽい。
 むしろ、クイーンのほうが、衣装もスタイルも堂々としていて、威厳がある。
 ということで、面白い説を読みました。
 古書で「うんすんかるた」(山口吉郎兵衛)という本に、日本にポルトガルかるたが伝わったころのポルトガルのお家事情を反映して、キングのモデルは、3歳で即位して長らく祖母が摂政をしていた少年王セバスティアン1世で、威厳あるクイーンは祖母のカタリナ・デ・アウストリアではないか・・というものです。
 真偽の程はともかく、面白すぎませんか?
 摂政皇太后カタリナは、かの有名なファナ女王とフィリップの娘で、カール5世の妹。
 セバスティアン自身は、母方でカール5世の孫ですから、フェリペ2世の甥にあたります。
 しかもかのフェリペ2世の娘イサベルに求婚していたのに許してもらえなかったらしい・・。だから、戦功を立てたくてかどうか、24歳の時、アフリカ遠征をして戦死しました。
 衣装は勿論スペインふうですが、杯のキングです。
 背景に張り付けたのが「天正かるた」。右の縦4枚のドラゴンと戦う女性がいわゆるクイーンですが、当時の絵札では「女従者」という位置づけもあるらしいです。どちらにしても、勇ましいです。 
2013-01-22
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ペトロ残酷王

コインブラ

 ペドロ残酷王という呼び名を持つ王様はもう一人います。
 カスティーリアのペドロ1世、勿論、こっちのほうが有名ですね。「アルカサルー王城ー」のドン・ペドロさまです。
 しかしペドロ残酷王と呼ばれたポルトガルの王様は、このドン・ペドロの叔父にあたります。
 つまり、カスティーリア王妃のマリアは、ポルトガルの王女で、ポルトガルのペドロ(ああ、ややこしい)の姉(青池さんのキャラでは、ペドロ王は、政略的でサメた王様)。
 さて、このポルトガルのペドロ王が何故残酷王と呼ばれたのか・・。彼は、罪を犯したとされる臣下を生きたまま心臓をつかみ出すというすさまじい方法で殺害したのです。
 というのも、すべては彼の悲恋からきています。
 彼は、王子の時代、妃(ドン・ペドロの父王の愛人だったかもしれない女性を政略で娶った)の侍女のイネスを熱愛しました。彼女は子供を3人も産みましたが、これを快く思わない父王に憎まれ、殺されてしまったのです(王たるものは、息子の妻の侍女の一人くらい処分することなど、なんとも思っていないわけですから)。
 父親の存命中は、手も足も出ず、恨みと哀しみを抱えて耐えていたペドロですが、父王の死後、自らが王位に着いた時、王命で、彼女に実際に手を下したその臣下たちに復讐をしたのです。
 それだけではなく、イネスの死体を墓から掘り出してきて、王妃の正装をさせて椅子に座らせ、臣下たちに「王妃の手に接吻をして敬意をあらわすように」と強要したとか。彼女は死後2年もたっているのですから、これまたすさまじい光景ではなかったでしょうか。
 それほどまでして熱愛した彼女のために、以後、生きた王妃は娶らず、立派な石棺桶を自分用と並べて作り、現在までアルコバッサの修道院で二人向かい合って眠っています。最後の審判で蘇って立ち上がった時、一番にお互いの顔を見ることが出来るようにということだそうです。
 ところで、コインブラは、イネスが殺された涙の館があったところですが、実は、ペトロ岐部がここに立ち寄っているのですね。
 また、ザビエルの弟子の日本人修道士ベルナルドが、ここで学んでいて客死しています。
 宝塚で「コインブラ」という演目で、この悲恋の物語が取り上げられていますので、リクエストを頂いて描いてみたのですが、実は、以前から、この「死体の王妃」の話が強烈だったので、どうしても綺麗な恋人たちの絵にはならないで・・本当にすみません。
 あまりに悲しみが大きすぎて、強烈な怒りにかわり、亡き妻の衣服を抱きしめて復讐を誓う・・というイメージで・・。 
2009-10-22

ウィンケンティウス

ウィンケンティウス

 聖ウィンケンティウス(またはヴィセンテ、お国によってはバンサン、ビンセント等)は、大航海時代、あまたの船が出港したポルトガルの首都リスボンの守護聖人です。
 スペインのサラゴサの助祭であったのが、かの悪名高きディオクレティアヌス帝の迫害時代に、総督のダキアヌスに逮捕され、バレンシアで殉教しました。
 海に投げ込まれた死体が、ポルトガルに流れ着き、2匹のカラスが守っていたという伝説に従って、聖人の清らかさをあらわす白とカラスの黒の2色が、リスボンのシンボルカラーであるそうです。
 この聖人の殉教については、最高に残虐な話が伝わります。鉄櫛で身体を引き裂かれ、焼けた網の上で焼かれ、傷に塩をすり込まれ、砕けた焼き物の上に転がされ、全ての内臓がこぼれだし・・・と、これでもかこれでもかという拷問のすえ、息絶えてからも、原野に放置して獣に食い荒らさせようとします(勿論、どのような獣も食い荒らすことはありません)。そしてついに海に放り込まれたのです。
 で、多くの血を流した(当然でしょうね)ので、葡萄酒の守護聖人で、海を旅?したので、船乗りの守護聖人で、瓦職人の聖人でもあるそうですが・・・・。
 この聖人像は、助祭の服装をして(血を流したからか、何故か赤い衣装が多いですが)、カラスを2匹連れている絵や彫像がありますので(スプラッターはいやなので)おとなしげな「漂着」の絵にしてみました。
2007-11-25 1

アルメイダとアルブケルケ

あるある

 フランシスコ・デ・アルメイダと、アルフォンソ・デ・アルブケルケは(ややこしい名前ですが)、どちらもマヌエル1世時代のポルトガルの海軍提督で、初代と二代目のインド総督を勤めました。
 かならずしも仲良しだったわけではありませんが、ともにインド洋におけるポルトガルの覇権を築きました。
 アルメイダのディウ沖海戦におけるエジプト艦隊への勝利は重要な役割を果たしています。ポルトガルは小国であったので、海上経営を国策としていたので(エンリケ航海王子などがその路線を拡張しました)、彼らせいで(おかげで?)、日本にポルトガル人がやってくるようになり、まあ、南蛮貿易というものがはじまったわけですが・・。
 二人ともハデハデしいいでたちの肖像画が残っていますので、お互いは不仲だったのですが並べて描いて見ました。白髭のアルブケルケ提督の、お髭の先のちょうちょむすびが、可愛い?ですね。
2007-11-23

マヌエル一世

マヌエル一世

 幸運王とも呼ばれるポルトガルの王様ですが、即位の当初は必ずしも幸運ではなく波乱万丈でした。
 王孫で、国王ジョアン2世の従兄弟です(ちなみに母方の従姉妹にカステリアのイザベル1世がいます)が、姉が王妃になったため、国王の義弟にもなりましたが、貴族階級の締め付けを行った王に反逆した兄が暗殺計画に失敗し、殺されます。
 いつ疑いを受けてもおかしくない状況下で、王の呼び出しを受けますが、果たして後継者の問題で悩んでいた国王の王太子に指名され、ついで即位を果たします。
 即位してからは、先代からの貴族との紛糾をなだめ、海上貿易などに力を入れます。そしてヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を発見し、更なる交易を広げ、ついにはマムルーク朝のエジプト艦隊を破ってインド洋とペルシャ湾の海上ルートを支配しました。
 マヌエル1世は、ローマ教皇レオ10世が即位した時に、お祝いとして中国の陶器や真珠、玉等とともに、象や豹など珍しい動物もプレゼントしたそうです。
 彩色写本に描かれた即位当初と思われる王の肖像画より描いて見ました。
2007-11-22

ルイス・フロイス

ルイス・フロイス

 日本人には人気の織田信長の時代を知るのに、この人が「日本史」を書かなければ、どれだけイメージが貧困であったでしょう。
 はるか海の彼方のポルトガル生まれのイエズス会の司祭です。当時アジアの最先端であったゴアに派遣され、ここで、日本人神学生のパウロ弥次郎に出会い、フランシスコ・ザビエルから日本の話を聞いて、日本に対する興味をかきたてられます。そして更に10年近くして(おそらくこの間に日本研究もかなりしたと思われます)、ついに日本布教の使命をおびて来日。時に31歳。
 来日後は、九州をはじめ、京都や岐阜に赴き、この間に信長に出会い、印象深い記述を沢山残しています。以後35年の間、ほとんどを日本にいて、キリシタンの弾圧も見て、高山右近が幽閉されていた時は、越前まで出向いて励ましています。最後は長崎で、26聖人の殉教を見て間もなく亡くなりましたが、日本におけるキリスト教の受け入れと迫害の歴史を全て見ていることになります。
 彼の膨大な著述「日本史」は、今でこそ、信長関連で知らない人はないくらいなのですが、直属上司だったヴァリニャーノは、あまりに膨大な量で、出版は「割に合わにゃーの」(ゴメン)といって取り合わなかったので、20世紀になるまで埋もれていました。このヴァリニャーノは天正遣欧少年使節を連れて行った人です。
 日本の秋に東奔西走する・・という雰囲気で描いてみました。
2007-10-25

エンリケ航海王子

エンリケ航海王子

 鄭和の軍船は、途方もない大きさで、船団もデカかったというのですが、中国の「大航海」は、彼一代で終わりました。
 しかし、西洋史で言う「大航海時代」を招来したきっかけになった人物として、エンリケ航海王子は、断然ヒーローです。現代もポルトガル観光のパンフなどでも登場する、あの坂道に仰山人が並んだ彫像の先頭に立つ、中華なべ様のデカい帽子に、バスタオルのような房のついたのを被ったチョビ髭の姿はかなり有名。
 父親のジョアン1世は、庶子でありながらポルトガル王の位を自ら勝ち取った人物で、3男であるエンリケは、若くして騎士団の総帥となり父を助けたのですから、日本史でいえば僧兵・・つまり闘う天台座主であった護良親王のような人物ではありませんか。
 しかも彼が率いたキリスト騎士団は、かのテンプル騎士団が姿を変えたもので、フランス本国では、騎士団の財産をねらったフィリップ4世によって、何人もの騎士を火あぶりにして徹底的に壊滅させられましたが、ポルトガルでは名前を変えて存続していたのです。ヴァスコ・ダ・ガマも騎士団員でしたし、コロンブスも騎士団の航海地図を手に入れていたといいます。
 かくして、悲劇のテンプル騎士のトレードマークの赤い十字は、多少変化していますが、エンリケ旗下のキリスト騎士団の帆船のマークとして世界を駆け巡りました。今見ようと思えば、大阪港にいる観光船「サンタマリア号」の帆にある十字ですね。
 若い頃から、海の彼方の伝説のキリスト教徒プレスター・ジョンを探していたといわれますが、その発想もいかにも聖騎士らしいので、こういう姿にしてみました。
2007-09-07
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Author:乱読F
歴史上の人物を沢山描きたい・・。
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