香を焚く少年

香をたく

 宋の時代には、文人のスタイルが決まり、士大夫階級は、書を読み、画を描き、琴を弾いて、棋をうつのが、教養であるとされていました。客を招いて庭園でそのような風雅を楽しむ光景などが絵に描かれましたが、その庭の一画で、香を焚く少年がいます。
 客の前で琴を弾く主のかたわらで、ムードを盛り上げるために香りを広げる少年は、主役でこそないけれど、その場の重要な役どころなのではないか・・。
 任仁発の琴を弾く士人の絵のなかで、主の前で、三足香炉で、香を焚く少年です。
2009-02-20
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和坤

和坤

  麻生総理夫人が観光したという北京の名園に恭王府があります。恭親王奕訴(えききん)の邸宅であったということで、そう呼ばれておりますが、もともとは、乾隆帝の寵臣であった和珅(わしん)が作ったものです。
 和珅は、一介の下級武官の出身ですが、乾隆帝の引き立てによって権勢を極め、中国史上最高に私腹を肥やした、ということで有名なので、その彼が作った屋敷ですので、絢爛豪華で、紅楼夢の大観園のモデルともいわれています。
 乾隆帝に見出されて、異例の出世をしたのは、かなり若い頃からですので、帝のお覚えがあまりにもめでたいのは、何ぞあるんではないか?と、人はやっかみ半分、詮索するもので、奇妙な生まれ変わり伝説もあります。
 それは、乾隆帝が若い頃、寵愛していた妃が髪をとかしている後ろから目隠しし、「だ~れだ?」なんていたずらをしたとき、驚いた妃が「ぎゃ~!」とあわてて、手にしていた櫛で帝の顔を傷つけてしまいます。
 このようなたわいないことが、母后の耳に入り、帝本人が「なんでもない」というのを、母后は「帝の尊顔に傷を負わせるとはゆゆしきこと!」と激怒して、若い妃に死を賜ったのですね。
 悲しんだ帝は亡き妃の遺骸の首に紅を塗って「20年後に必ず蘇ってきてくれ。私は待っているぞ」と誓ったそうですが、果たしてそれから20年後に帝の前に現れた若き武官の和珅が、亡き妃に顔立ちが瓜二つ、しかも首につけたしるしと同じ場所に赤いあざがあり・・なんていう物語です。
 伝説が本当か否かは別として、帝の寵愛は一方ならず、25年も長きにわたって栄華を極めたものの、帝の死後、ありとあらゆる不正をして蓄財に励みすぎたものだから、本人は20種類以上の罪に問われて死刑、莫大な財産は没収されました。
2009-02-13

岳飛

がくひ

 岳飛は、中国史上、最大の英雄であり、また、関羽と並ぶ・・といわれていますが、侵略してくる異民族と戦った・・という点では、関羽より漢民族の心に訴えるものがあると思います。またその最後も、有能であるが故に、朝廷の奸臣によって陥れられ、無残にも殺された・・というところで、なお一層悲劇性を増しています。
 これほど有名な人物でありながら、三国志のさかんな日本では、関羽よりはよほどネームバリューが低く、資料も少ないので、さしずめ、田中芳樹の「岳飛伝」でも読まなければならないかもしれません。とはいえ、「岳飛伝」はあくまで物語ですから、誇張もドラマ性も多いので、史実とは若干異なっています。
 簡単な図式でいうと、南宋の対金政策において、和平派の秦檜と、主戦派の岳飛との勢力争いではありますが、北の版図を失い、勢いのなかった南宋の皇帝にとっても、和平は望むところであったし、また強力な軍閥の岳飛が、政治的な危険人物であったことも確かでしょう。
 文官で、武力を持たぬ秦檜が、権謀術策の限りをつくして陥れた政治ドラマの中での一徹な軍人の悲劇とでもいえましょうか。結局は、なりふりかまわず恐怖政治をしいて権力を維持した秦檜は、文句なしの「悪役」となり、敵国金と気脈を通じた「売国奴」とされたわけです。
 しかし、私的には、同じく悲劇的な末路とはいえ、関羽が颯爽としているのに比べ、岳飛は時代もさることながら、なにやら淋しそうなイメージがします。
2009-02-07

定陵の武人

定量の武人

 北京郊外にある明の十三陵は、観光化しているので、万里の長城とセットで見に行ったことがある人は多いかもしれません。
 その中でも第13代万暦帝の葬られている定陵は、18万平方メートルもの墓域を持つ巨大な陵墓です。
 公開されている主体部は、地下宮殿として中に入ることが出来ますが、なにしろデカいし広いので、地下に入るまでにすごい距離の参道があるので、ツアー客は途中までバスで行きます。
 ですから、写真では有名ですが、実物はあまり見ることのない石の武人を着色してみました。色合いは、よくわかりませんので、学林出版社「中国歴代服飾」の復元画像によりました。華やかな儀杖兵であるかもしれません。きちんと正装して尺を持った文官もいます。
2009-01-17

香妃

香妃

  乾隆帝を出し、カスティリオーネを出して、この方を出さないなんてことは・・できませんよね。
 あまりにも有名な悲劇の女性香妃です。
 裏王昭君!とでもいうべきでしょうか? 有名な伝説は、清帝国に叛逆したウイグル族の王の妃で、絶世の美女の上に、生まれつき身体から芳香が漂う(挙体芳香と言うそうです)女性だったそうです。
 夫の王が清に敗れたので、敗戦国の女性の悲劇で、捕らえられて、乾隆帝の後宮に送り込まれます。
 しかし、あくまで皇帝の寵愛を拒み、あまつさえ亡き夫の仇を討とうとしている・・と思われて皇帝の留守に、皇太后によって自殺を命じられて27歳の生涯を終えます。悲しんだ皇帝は彼女の遺骸を故郷に送って丁重に葬らせた・・というものです。
 このような伝説を持つのですが、史実はどうだったかよくはわかっていません。
 ちゃんと?皇帝の寵愛を受けて長生きしていた「容妃」が香妃だという説もあれば、いや、それは別人だろうとか、色々な説があるそうですが、芳香の漂う天然香水の美姫としては、悲劇に終わるほうが一般受けしそうです。
 30年も後宮にいて、50歳を越えて芳香のただようおばさんでは、魅力が半減するのかも・・。
 カスティリオーネが描いたとされる肖像画(香妃ではないという説もあるらしいです。また絶世の美貌ではないとご不満の方もいるそうです)がありますが、西洋式の甲冑を着た姿です。
 皇帝の狩猟に従った時のものだと言われているのですが、むしろ、武装の女神アテナなどのコスプレではないか・・なんて思いましたが、どうでしょう。カスティリオーネはイタリア人だし、サービス精神を発揮して、皇帝の寵姫を女神に見立てるってのもありじゃあないです?
2008-12-23

雍正帝

ようせいてい

  康熙帝ときて、乾隆帝とくれば、やはり真ん中の雍正帝を出さねばなりますまい。
 この皇帝については、即位当初の事情で、グレーなウワサがありますが、生前に後継者が公になっていると、その周りの人間が色々画策をする・・ということで、皇太子の名前を記した文書を隠しておくという「太子密建」の方法を考案したそうです。
 また、ものすごく働いたので、仕事のしすぎで過労死したとか、こっそり殺されていたとか、ストレスで酒びたりになったとか、あるいは不老長生の薬の飲みすぎで死んだとか、死に際にも謎の多い人ですね。
 しかし、仕事オンリーのクソ真面目な皇帝かといえばそうでもないんじゃない・・・なんて思えてしまうのは、この人の肖像画に、様々な衣裳をつけた雍正行楽図というものがあって、それによれば、すっかりコスプレマニアみたいなイメージです。
 まあ、皇帝は色々な立場で天下を治めるというのはありかもしれませんが、何をおいても、面白いのは、洋装をして、虎退治!している絵です。時は18世紀ですから、この時代の西洋とくれば、もう「くるくる巻き毛の鬘」ははずせません。乾隆帝の孔明ちゃん頭巾など、ぶっとぶようなかぶりもの!
 徳川慶喜さんが、ナポレオン3世の時代でよかったですね。ブルボン王朝時代だと、このような・・・・日本人には、似合いませんわなあ。 
2008-12-21

乾隆帝

乾隆帝

 乾隆帝は、もっとも有名な皇帝でしょうか。
 清王朝の最大版図をもたらした、文武両道の人。康熙帝の孫にあたりますが、その祖父に愛されて、将来皇位につくことを確信していたかもしれません。
 度重なる外征も行いましたが、文化的な事業にも精力的に取り組み、宮廷生活も派手で、なにかにつけて華やかな中心にいた・・というところは、フランスの太陽王のようであったかもしれません。
 カスティリオーネが描くところの騎馬像が有名ですが、武装して乗馬する姿は、これもまた騎乗のルイ14世の如く、威厳を持たせています。
 「文化人」皇帝らしく、紫禁城に残る肖像画には、中国古来の漢人の文人の姿をしているものもあります。清朝の辮髪に良く似合う毛皮の縁取りのある帽子ではなくて、諸葛孔明のような冠を被り、宋代の儒学者のようなゆったりとした服装で、関羽のように髭をひねりながら筆を執る姿です。ただ、この時代の流行、爪を長く伸ばした指は、繊細で、女性の手のようにしなやかに描かれています。 その絵から描いてみましたが、背景は竹林にしてみました。竹林の七賢あたりを気取っていたかも・・と想像しましたので・・・。
2008-12-19

ジョゼッペ・カステリオーネ

カステリオーネ

 日本ではフランシスコ・ザビエル、中国ではマテオ・リッチが有名どころの宣教師。そのマテオ・リッチの中国入りからほぼ100年の後に登場したのがジョゼッペ・カスティリオーネです。
 イタリアはミラノの生まれで、時代からするとマリア・テレジアのパパ、カール6世とほぼ同世代です。
 イエズス会の宣教師として、27歳で中国に渡ります。結局、絵筆をとって、康熙帝、雍正帝、乾隆帝のもっとも清朝華やかなりし時代に、宮廷画家として活躍しました。
 作品は、西洋風東洋絵画・・ともいうべき独特の画法です。また、絵ばかりでなく、略奪された十二支像の中国への返還などで話題になった西洋式庭園の円明園の作成にも深く関わっています。
 中国名は郎世寧ですが、彼の作品の中の壁画などは、実物の建物と、壁に描かれた絵の中の建物を組み合わせる技法は、古代ローマの邸宅の壁画に通じるものがあるように思いますが、いかがなものでしょうか。
 中国のテレビドラマ「清王朝宮廷画師郎世寧」のスタイルで描いてみました・・って、フツーの宣教師ですね・・。
2008-12-18

清朝の仕女

清朝仕女

 紫禁城の中には政治を司る表向きの部屋もありますが、皇帝の「居城」でもありますから、当然、日常生活の場であったところも含まれています。
 その中でも、起居するところは、もっともプライベートな空間で、寝室には、豪華な帳を垂らしたベッドと、日常にくつろぐ椅子などがあり、調度品も贅を尽くした豪華な美術品でありますが、そのような皇帝の寝室にかけられていたといわれる絵があります。
 それは仕女図と呼ばれる、いわゆる中国の古典的な美人画で、仕女・・つまり女官ですが、宮中に仕えるには当然「美人」でなければならないので、仕女が美女の代名詞になっています。
 そして、皇帝のベッドルームにかけられていた美人画とは、これはどんなものなのか・・。
 庶民の部屋の壁に貼られたアイドルのポスターなんぞでは当然ありませんで、鮮やかな青い衣裳を着た女性が、鏡に向かって、すでに化粧はすませ、爪の手入れもし(長い爪が流行していました)、仕上げに髪飾りの簪を挿し終わる・・というところを描いた、おとなしやかな絵です。
 こういう絵を見ながら、皇帝陛下は、朝の身支度をなさったのか、あるいは、夜の宴会にむかう着替えをしたのか・・・? モデルは、お気に入りの皇妃だったのか? あるいは贔屓役者・・? これじゃあ、アイドルポスターとかわらん・・か・・・。
2008-12-17

康熙帝

康熙帝

 康熙帝は、清の第4代目の皇帝ですが、8歳で帝位について、60年も在位していましたが、いまだ清の国体も定まらず、内乱などが起こり、国の中に敵を抱え、国際問題も複雑な時代でありました。これらの問題を次々と収拾して、結局は、清が、統一王朝として、国内をまとめたのは、彼の時代です。
 そういった政治的な問題のみならず、康熙帝と聞いてすぐ浮かぶのは、康熙字典で、漢の時代からの漢字の解説を集大成して、その編修にあたって、部首の画数の少ないものから順次並べるやり方は、今日の漢字辞書の基本となりました。
 漢字辞書を引くのは面倒だという人が増えているようですが、部首や画数などで扱える字典は、たらたら眺めていても面白いものですが、これも、康熙字典があるからこそでして、漢字コードなどもこれが元になっていますから、漢字文化圏では、大層恩恵をこうむっているわけです。
 文化人としても名高いこの皇帝は、質素であったとも言われており、勿論皇帝の正装をした肖像画もあるのですが、普段着のままで本棚の前に座り読書をする絵や、字を書く場面なども、きらびやかな衣裳は着ておりません。
 若い肖像画から、白い紙を机の上に広げ、これからまさに筆を下ろそうとしているところを描いてみました。この絵のもう一人の主役は、螺鈿の豪華な筆ではないかというくらい、装飾的な筆がこまかく描かれています。
2008-12-16

呉皇后

呉皇后

 実質上、南宋の初代皇帝となった、高宗趙構の皇后
 そもそも呉氏は、かの遊興皇帝徽宗の9番目の息子である康王趙構の後宮に入ったのですが、まもなく靖康の変、つまり、皇帝と上皇らが敵国金に連れ去られるという前代未聞の大事件が起こります。
 この時、趙構は、父徽宗や兄欽宗とともに正妻も連れ去られてしまいましたが、南京に逃れ、そこで先代の皇后で廃されて後出家していたので、皇族とはみなされず拉致されずにいた「おばさん」(父の兄の元妻だから、おばさんでいいよね)の推薦ということにして即位します。
 帝位についている兄がいるにもかかわらず、勝手で即位したとして反対派もおり、常に金の侵攻に悩まされ、あちこちと宮廷は移動しましたが、この時期、高宗の傍らには常に、自ら武装した呉氏がいたとされています。
 夫高宗の実子は夭折してしまったので、呉氏の遠縁にもあたる傍系皇族の趙晋(孝宗)を養子にして、高宗のあとを次がせますが、83歳の長寿を保った彼女は、以後2代にわたって、背後で、力を持っていたそうです。
 この時代を扱った水滸伝にも勿論、腕の立つ女将軍もいるので、武装する女性が出てきますが、彼女は武装する皇后だったのです。
2008-04-04

蘇三

そさん

 蘇三は、無実の罪で牢獄に入れられた伝説の悲劇の美女です。
 そもそも、源氏名を玉堂春という北京の都の売れっ子芸妓でしたが、その艶やかさに、田舎から出てきた官吏の息子の王景隆が一目ぼれし、有り金全部を使い果たして、すってんてん、妓楼から追い出される。
 この一途な若者を、自分も慕い始めた蘇三は、こっそりお金を出して「もうあなたは、ちゃんと勉強して試験を受けて、出世をして下さい」と送り出しますが、その後、山西からやってきた金持ち旦那が彼女を気に入り、身請けして故郷に連れて帰ります。
 さて悲劇はこの旦那の家で起こります。金持ちの妻は蘇三の美貌を妬み、旦那も邪魔。で、愛人とともに旦那を殺し、蘇三に罪をかぶせ、役人に賄賂を渡して死刑判決。あわれ、無実の彼女は死刑囚として投獄されます(この彼女が入っていた牢獄というのが、山西省の観光名所で、明代の牢獄の復元として人気があるそうです)。
 ところが、運命のいたずらか、彼女を慕う王景隆が科挙の試験に受かって、中央から山西省に派遣されて来たのです。裁判に不正ありということで、審理をしなおし、ついに真犯人が暴かれて彼女は晴れて無罪。そして、王景隆と結ばれましたとさ・・めでたしめでたし・・・・のお話ですが・・・。 
2008-03-06

鄭和

鄭和

 「シンドバッド7つの航海」という映画が、昔。ありましたが、この鄭和さんは7回の航海で、アフリカのケニアにまで行った、まさに東洋の大航海時代を代表する人です。
 ドラマチックな海洋活劇にもなりそうな人なのに、あまり取り上げられないのは、やはり彼が宦官というハンディがあるからでしょうか。何もなりたくてなったわけでもなく、子供の時に捕らえられて去勢され、奴隷として売られてきたのです。
 名前のイメージからは漢人のようですが、彼はいわゆる色目人(しきもくじん)のムスリムで、モンゴル人の雲南開拓のために現地入りした人物の子孫で、本姓の馬というのはムハンマドを表しているそうですから、まさしくシンドバッド風なアラビアンナイトのような人物ではありませんか。
 燕王(永楽帝)の子飼いの宦官だったので、彼が即位するのに功績があったので取り立てられ、1405年に大船団を率いて、明の国威を示し、諸国と交易するために出航しました。鄭和の旗艦は長さ137メートルもあり、500トン(一万トンあったのではないかという説もあり)級で、船団は62隻であったそうです。
 ちなみにヴァスコダ・ガマの船団は120トンの船3隻、コロンブスは250トンの船が3隻であったというから、いかに巨船であり、大船団だったか。これぞ、まさに大航海ではありませんか。
 しかし、彼の7回の航海の公式記録は、宦官である彼の功績を憎み、敵対する官僚によって全て償却されてしまったので、実態は謎となり、以後、大規模な中華王朝による航海は行われなくなり、巨大な船を作る造船技術も失われてしまったそうです。
2007-09-04

高青邱

青丘

 青邱子 やせて清し
 本と是れ 五雲閣の仙卿なり
 何の年にか降謫されて世間に在るや
 人に向かいて姓名をいわず
 履を踏むも 遠遊を厭い
 鋤を担うも 躬耕を懶し
・・・で始まる「青邱子」は、青邱子こと高啓が、自らを天上界から流された仙人として表現したもので、すべては自然界の美を、ただ詩をつくり詠うことが生活の全てであるというのです。
 しかし浮世を離れているかというと、そうでもなく、元末明初の、激動の時代に生き、江南の、それも呉以来の古都である蘇州人として、プライドも高かったのでしょう(一説に、北斉王家の子孫であるというのですが、それならば美貌と狂気の一族ではありませんか・・)。新皇帝朱元璋の逆鱗にふれたかどうかして、死を賜った悲劇の詩人であり、昔は日本人にとても好まれたようで、森鴎外の翻訳詩もあります。
2006-11-14

万貴妃

万貴妃

 年若い男は、年上の女性の魅力に抗いえず・・・というのは、ままあるようですが、明の憲宗(成化帝朱見深)は、まだ20歳前の頃に、女官の一人で29年も後宮にいたという万貴妃にほれ込んでしまいました。たとえ、十代で宮仕えしたとしても40は過ぎているでしょうが、これが22、3歳に見えたそうですから、憲宗の女修行がまだ足らんのか、万貴妃がよほどバケるのがうまかったのか・・。
 この母親より年上の美女にぞっこんになってしまった皇帝は、かねてより不仲だった皇后を廃立し、万貴妃を後釜にと画策します。けれど、やはり年齢の差は格好が悪いと皇太后に諭され〔母親としては自分より年上の嫁なんて・・・ねええ)、あきらめましたが、それ以降、だんだん焦ってきた万貴妃は、自分が年齢的にも子どもが産めないので、他の妃や女官が妊娠することにとても神経質になって、裏で流産させたり、はては生まれた皇子が次々事故死したり、急病死したりの陰険な陰謀を企てました。
 やがて、あまりに度が過ぎてついに皇帝の足が遠のいたことに苛立ち、他の男を引き入れて(本気で自分が妊娠したかったのかも)、結局、死を賜りました。
2006-07-18

林和靖(りんなせい)

林和靖(りんなせい)

 四君子の一つ「梅」は、春の花です。
 季節的にはまだ早いのですが、新春を祝う気分で、梅の花を。四君子は梅、蘭、竹、菊ですが、この中でも梅は、百花に先んじて咲くことから、孤高の徳といわれるそうです。
 この梅の花をこよなく愛した北宋の詩人が林和靖で、日本の画題でも、花をつけた梅の巨木の下にたたずみ、傍らに鶴が舞う絵などに描かれている人物です。
 彼は、西湖の一角に住み、そこから20年も一歩も外に出ることなく、庭に梅を植え、鶴を放し飼いにして、その梅を愛するあまり、わが妻と呼び、鶴をわが子といったという超俗の人ですが・・。
2006-01-02

鄭成功

鄭成功

 ご存知国姓爺合戦の主人公。平戸生まれの台湾の英雄です。
 貿易商人(限りなく海賊に近い?)の鄭芝竜が、日本の田川さんの娘さんと結婚して、平戸に住んでいた時に生まれた。7歳の時、父母とともに中国に渡り、「海賊」の息子にしては、本格的な教育を受けて南京の大学にまで進学した秀才です(マイケル・コルレオーネみたい?)。
 当時、満州族の清王朝の圧迫に逃げ回っていた明の亡命朝廷は、21歳の若きエリートの彼に大いに期待をし、皇帝の姓(朱)を賜り、以後国姓爺と呼ばれます(本来「爺」はじいさんではなく、高貴な人に対する呼びかけに使われる言葉です)。
 その後、勢い盛んな清に、母は殺され、父は降伏。残った海賊軍団を率いて、明王朝のために奔走し、皇帝がミャンマーまで逃げても戦い続け、台湾にオランダが築いていた城を落として、本拠地を作りますが、その翌年39歳で病死。しかし、その後遺志を継いだ者たちが20年も清に抵抗を続けたそうです。
 背景画像に桜三月jyokoの原点?から、ホンモノの平戸の海の写真を頂いて加工しました。
2005-08-28

魏佳貴妃(孝儀純皇后)

魏佳貴妃

清朝の皇帝で、ラストエンペラーを別としたら乾隆帝が、一番あちこちで見かける名前ではないでしょうか? 王朝の最盛期を作って60年も帝位にあって、まあ、中国の太陽王みたいな人ですから。
 大旅行や外征、華やかな女性関係(香妃の物語も有名)。文化事業。多数の詩文(本当の愛妻であった富蔡氏を悼む詩なども山ほど)。ほんとうに派手な人ですが、皇帝の女性関係のなかにあって、多分、地味で目立たない存在?であった魏佳氏は、元気で活発な帝より30年も早く死にますが、帝の晩年に彼女の産んだ第15皇子が皇太子に指名されて「皇后称号」を与えられ、はからずも皇帝の生母となって、皇后の衣装を着た肖像画を描かれることとなりました。
 なにやら、影の薄い、ちっとも嬉しそうでない奇妙な表情の絵に興味をそそられて描いてみました。宮廷画家が、あまり美人でもなかった?彼女の顔など良く知らなかったので、衣装だけ華やかに描いた・・という感じなのですが、妙に悲しげなのです。
2005-08-07
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