千金公主(大義公主)

千金公主

 突厥帝国のお話です。
 南北朝の混乱期から隋・唐の統一王朝が出来る戦乱の時代に、北朝のお姫様に千金公主という女性がいます。
 彼女は、北周の武帝の弟宇文招の娘です。
 突厥の実力者であった木干可汗(阿史那皇后の父)が死ぬと、後継争いでもめて、結局、息子ではなく弟の他鉢(タバトル)可汗がつぎます。
 この可汗は、戦いに敗れた北斉皇族の高紹義の亡命を助けて、北周の北辺を荒らしたので、北周の逆鱗にふれ、交戦状態になりました。
 しかし、北征中に武帝が死に、代替わりすると、態度を変えて北周に公主の降嫁を求めます。
 「このへんで、なかよくせえへんか?」という提案でしょう。
 宣帝は、戦をする気はなく、あっさりと承諾し、従姉妹の千金公主を他鉢可汗のもとに輿入れさせます。
 かわりに高紹義が、北周に引き渡されたのは取引です。
 しかし、この可汗はすぐに死に、後継者争いはまたしても、ごたごたしますが、結局、甥にあたる沙鉢略(イシュバラ)可汗が引き継ぎ、千金公主もこの新しい可汗に再婚することになります。
 その間、北周の王朝が滅亡し、彼女の父や一族も楊堅に殺され、隋の王朝が成立してしまいました。
 公主は、大いに嘆き、新しい夫に、隋に復讐してほしいと懇願します。
 この可汗は、もしや自分が北周の皇帝を称することができるかも・・と夢見たのか、大軍を率いて隋の北辺に侵略します。
 しかし、隋は策略千年の中華の大国です。
 常に内紛を抱えている突厥の貴族たちを揺り動かして得意の離間の計。
 突厥汗国は分裂しはじめ、足元に火がついてきたし、味方に背後をかかれそうになります。
 このままでは、北周の仇討どころか、突厥の可汗国自体があぶない。
 ここで、千金公主は、大きな賭けに出る。
 仇敵の隋の文帝楊堅に手紙を書きます。
 「私は周の皇族です。英明なる陛下の温情にすがって、隋の王族にしていただけないでしょうか?」というもの。
 つまり、どうぞ、私を娘分として突厥との和平の絆としてほしいというものです。
 隋としては、突厥対策に、利用価値ありとみて、彼女を養女として大義公主の名を授け、沙鉢略可汗を「婿」と認めます。
 沙鉢略可汗はすぐ死にますが、そのあとを継いだ息子の都藍可汗が、隋の公主となった大義公主の三番目の夫になったのは勿論です。そういう政略結婚なのですから。
 そして隋の文帝楊堅は、悲願であった南朝の陳を滅ぼし、天下統一を果します。
 その南朝攻略の土産に、陳の王朝からかっぱらってきた屏風を大義公主に送ってプレゼントします。
 意味は「あなたのおかげで天下統一ができたよ。ありがとう」と、「隋の王朝はもう、こんなに強くなったから、あんたにはもうどうにもできないよ」と言うことでしょう。
 思いがけない雅な品を目にして、彼女は、つい本音が出たのでしょうか。
 流浪の貴人を嘆くような詩を書きます。
 彼女の悲運に、南朝の皇族の悲劇を重ねて、征服王朝の残酷さを非難しているともとれます。
 これを聞いて文帝が不機嫌になったのは当然でしょうね。
 彼女も隋を滅ぼすことを実はあきらめていなかった。
 夫たる可汗も煽動していましたし、隋に不満を持つ漢人や、旧王朝の人物たちと連絡をとっていた。
 彼女のもとで安遂加という人物も暗躍していましたが、これは公主の愛人といわれています。
 安という姓からペルシャ人でしょうか。
 結局、これも隋の離間の計でしょう。
 都藍可汗に、隋のお尋ね者をとらえるよう指示し、しかもその背後に大義公主とその愛人がいることがバレた。
 また、可汗の従兄弟が、可汗になりたがっているのも隋には好都合。
 大義公主を殺したら、本物の隋の公主を嫁がせると約束します。
 こうして、孤立し、謀反人を保護したかどで、隋から公主位を剥奪された彼女は、夫の都藍可汗に殺されます。
 必死に頭脳を絞って辺境で生きてきた烈女は、いまだ33歳であったと言われています。
 
 あつかましくも、都藍可汗は大義公主を殺したのだから、新しい公主を嫁にくれと隋に要求しますが、公主を降嫁されたのは、敵対する従兄弟で、隋のバックアップで、啓民可汗となり、力をそがれた都藍可汗は自分の部下に暗殺されます。
2014-06-22
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李静訓

李静訓

 西安で発掘された隋代の墓は、精巧な家形の石郭を持ち、その中に石棺が収められていましたが、約200点にもおよぶ豪華な副葬品が注目を集めました。
 華麗な金銀、宝石をちりばめた装身具や、ペルシャの工芸品、精巧な陶磁器など、贅沢な品々で、よほどの貴婦人であろうと思われる墓の主は9歳の李静訓という少女です。
 このように豪華な墓に眠る少女は、隋の朝臣李敏の娘です。
 父の李敏は右騎衛大将軍李渾の甥で、漢代の李陵の末裔という名門ですが、さほどの権臣ではありません。
 むしろ、少女の母が楊帝の姪にあたる貴婦人で、名を宇文娥英。
 父は北周の宣帝、母は皇后楊麗華
。つまり北周の武帝宇文邕と隋の文帝楊堅孫娘にあたります。
 世が世ならば公主としてかしずかれていた身分です。
 血筋がいいのですから、彼女の娘の李静訓も、成長すれば、皇太子などに嫁ぎ、身分上、将来皇后間違いなしですから、もし男の子でも生めばやがては皇帝になる・・というのが約束されていたはず。
 そのような、掌中の珠のような娘に死なれた両親はどれほど悲しんだでしょう。
 しかも、彼女は祖母の楽平公主楊麗華がものすごく可愛がっていた。
 楽平公主楊麗華は、息子は父楊堅によって殺され、ただ一人の娘の娥英を溺愛し、その娘に生まれた孫娘は本当に可愛がっていたのでしょうね。
 しかし、結局、後に煬帝が李姓の者が自分を滅ぼすという占いを信じて、李敏も宇文娥英も刑死しました。
 そして隋そのものもまもなく滅びたのですが・・・。
 副葬品として出てきた金と真珠の蝉の髪飾りをつけ、赤色オパール、ラピスラズリ、トルマリン、真珠をあしらった首飾りを付けた姿にしてみました。
 この首飾りの詳しい記事はこちらにあります。背景にしたのは、首飾りの留め金で、鹿の文様が彫られたラピスラズリです。
2014-06-17

胡服の女

胡服の女

 南北朝時代の北朝から出た統一王朝の隋・唐は、北方遊牧民的性格を持っていました。
 当時流行の服飾も、乗馬に便利な胡服が流行し、女性も馬に乗って出かけるようになったので、男装をすることもしばしばあったようです。
 唐代の傭には、このような男装(というより、女性の活動衣?)の侍女などがあります。
 前身ごろに華麗な装飾を施した別布をつけ、襟元を大きく開いて裏の文様を見せた衣裳の年若い女です。
2008-09-03

李憑

李憑

 箜篌(くご)という楽器があります。東洋の竪琴で、正倉院にも残っており、百済琴と呼ばれたりしますが、本来はもっと西方の楽器で、中国では漢代に伝わり、唐代に大流行していたようです。敦煌の壁画や唐傭にもこの楽器を演奏する楽人の姿があります。
 しかし、14世紀頃に一旦、廃れてしまいましたが、現代では演奏方法や姿形などの復元研究がなされ、ハープ奏者が演奏を試みたりして、演奏会などもされているようです。
 この箜篌の唐代における名手が李憑ですが、彼の名を残したのは、李賀がその演奏の素晴らしさを漢詩に歌っているからです。
 ほかにも何人かの詩人に、当代一の名手と称えられています。漢人ではなかったと言われていますが、西方のエキゾチックなイメージがあるほうがふさわしい気もします。
 演奏する人によっては、右肩か左肩に抱きかかえるようにするもの、あるいは立てた上にかがむようにするものなどの姿がありますが、唐代の壁画では、胡坐に座って膝の間に挟み、右肩に乗せているので、そのスタイルで描いてみました。
 天上の音楽とされる音色はどのようなものであったのでしょう? 壁画には、右手に撥のようなものを持っている雰囲気のあるものがありますが、実物を見たわけではないので、撥はなしにしました。
2008-08-18

藍采和

藍采和

 八仙人の一人で、万年少年です。
 トレードマークは宝蘭の花かご・・。拍子板を持っているということになっています。酒を飲んで歌う・・ということですから、よく絵にかかれるような小さな男の子ではなくて、もう少しトシをくった少年じゃないかなあと思いました。
 破れた藍色の衣装・・とはいいながら、歌を歌ったり、花をしょってたり、鶴に乗って飛ぶなど・・かなり、形式的に「美化」されているのではないかと、こういう姿にしてみました。
2007-08-14

韓湘子

韓湘子

 八仙人の一人です。
 名高い文人の韓愈の甥だそうで、若い時から、勉強しろ勉強しろと言われ(なにしろ、科挙を受けなければいけませんから)、教育アンクル?に嫌気がさし、20歳の頃に家出してしまいます。数年たって戻った時には、すっかり仙人になっていて、真冬なのに牡丹の花を咲かせたりする術が出来るようになっていましたが、またしてもふらふらと行方不明。
 何年かして、韓愈が旅の途中、雪道で遭難一歩手前になった時、どこからともなく彼が現れ、笛を吹くと雪が上がって、道が現れ、助かった・・というのですが、そのとき「私の学問とおじさんの学問は性質が違うのです」と言って、今度こそ、去って行ったそうです。
 あまりに暑いので雪の話題で・・・。
2007-08-12

呂洞賓

呂洞賓

  八仙人の一人で、唐代の書生であったのが、科挙の試験を受けに行く途中、仙人に出会って仙道修行をすることとなって、仙人になりました。
 虎を引き連れて、竜を退治したという伝説がありますので、甲子園の虎(今夜は、メチャ負けしていますが・・・)に、なんとかもうひとがんばりして欲しいと、この絵を描きました。
2007-08-01

鍾馗

鍾馗

 はしかや、水疱瘡といった子どもの病気に効き目があるということで、赤い筆で描いた鐘馗さまの絵を見たことがある人は多いと思います。また屋根瓦になっていて、京都の町屋などに「魔よけ」として置かれていることもあります。
 伝説では、唐時代の人物で、科挙に失敗して自殺した・・といういささか頼りなげな「受験生」ですが、玄宗皇帝が病気にかかったとき,夢に彼が現れて、鬼退治をしたと見るや、病気が治ったということから、魔よけ・・特に疫病から守るということで、芸術品としての絵画というより、「実用的な絵画となって流布しました。
 ウチの家にも、多分、先々代が描いた朱筆の鐘馗さまの掛け軸がどこかに・・あるはずです・・。月岡芳年の横向きの鐘馗の絵が面白かったので、横向きに描いてみました。唐代の人物だというので、このような衣装に・・。
2007-07-10

善妙

善妙

 「華厳縁起」という絵巻物がありますが、日本で作られた外国の物語です。
 新羅の華厳宗の高僧義湘(ぎしょう)が、いまだ若い時、唐の長安に留学し、勉学にいそしんでいた頃、善妙という女性に熱愛されます。しかし、彼は、修行中の僧であり、彼女の思いに応えることは出来ないので、別れも告げず、船に乗って新羅に帰ってしまいます。ところが、それを知った彼女は、恋しい義湘を追いかけ、はるか沖に、彼を乗せた船を見つけると、海に身を躍らせ、龍に変身して船を守り、無事新羅まで送り届けた・・というものです。
 これって、なんだか道成寺縁起と、とっても似ていません? ですが、清姫のように、捨てた男への恨みが重なって変身するのではなく、恋しい人を守りたい一心で彼のために集めていた宝物(これが経典や仏具のようなもの?)を抱いて追いかけ、竜神となった彼女は、華厳宗の守護神になった・・ということです。
 絵巻物は、道成寺縁起も、華厳縁起もどちらも、美僧に恋する女の「変身場面」が見せ場ですが、決着は正反対です。
2007-05-25

大平公主

大平公主

 武則天の愛娘。母親は、息子達に対しては冷たかったというのに、この娘については特別扱いなのか、ウマがあったというか、仲良し母子でした。
 母の生きている時は、遊び暮らし、母とは趣味を同じくし(男の好み)、かの有名な二張と呼ばれる武則天の若い愛人兄弟を紹介したのも、彼女だそうです。
 母の死後、兄が即位したので、その影で、兄の妻である韋后をも、うまく丸め込み、韋后が夫を殺すに至ると、甥の李隆基と結託して、彼女を殺し、次にはこの甥っ子を・・と算段していましたが、なかなかしたたかな相手であったので、逆に滅ぼされてしまいました。
2006-09-27

上官婉児

上官婉児

 武則天を出したので、ついでにこの人もいってみましょう。上官の二字姓で、名が婉児です。
 本来は、反逆者の娘で、父の上官儀が処刑されたあと、奴婢として後宮に閉じ込められ、一生こき使われる身の上でありましたが、その知性と才能を当の武則天に見出されて、秘書となり、色々な裏政治の駆け引きを学びました。
 武則天が死んだ後、彼女がすでに渡りをつけていた中宗が即位しました。皇后の韋氏は娘と結託して、自分も女帝になりたいと野心を持ちます。そのとき、彼女がいわば女軍師のような役割をしたとも言われておりますが、彼女自身は、次の手として弟の睿宗李旦にもわたりをつけていたようですが、結局は李旦の息子である李隆基に、韋皇后一派とみなされて殺されたのは、策士策に溺れる・・というところでしょうか。 ある意味、彼女も女傑であるかもしれません。 
2006-07-14

武則天

武則天

 則天武后と呼ばれてきましたが、最近は武則天という中国での呼び方にならっているようです。
 中国史上唯一の女帝。権力を手にするまでには、色々なエピソードがあり、わが子を殺したとか、残酷にライバルを蹴落としたとか、まあ、これが男だと「こういう時代だったんだ」などと片付けられる程度のものでっすが、女だと「怖~!」といわれます。確かに怖いおばさんですが。
 初めは太宗の後宮にいて、皇帝の死後に出家させられたその他大勢の女性達の一人だったのですが、次の高宗のときに女たちの争いの道具として還俗させられて復帰。彼女を引っ張り出した王皇后はとんでもない「手違い」をしたものです。
 早速高宗をモノにして、王皇后もライバルの妃も追い落とし、着々と権力を蓄え、遂に皇后になり、更に夫の死後は息子達を廃して自ら帝位につきました。
 このような女傑をどんな風貌で描けばよいか迷ったのですが・・まあ、こんなとこで。
2006-07-13

李隆基(玄宗皇帝)

李隆基

 玄宗といえば、もう楊貴妃に溺れて国政をあやまり、いじけて死んだおじいさん・・のイメージでありますが、若い時はなかなかに波乱万丈。
 なにしろ、中国史上唯一の「女帝」武則天の時代に生まれました。父親は李旦。李旦は武則天の息子です。母親の傀儡として兄の後を継いで即位(睿宗)しますが、母が自ら帝位についたので廃されました。
 武則天が死んだあと、再度兄の中宗が復位しますが、皇后の韋氏と娘の安楽公主によって殺され、そのあと韋后の勢力を排斥したのが、息子の李隆基と海千山千の女策士大平公主(武則天の娘で睿宗の妹)でした。睿宗李旦は担ぎ上げられて再度即位したものの、次なる陰謀は、息子と妹の二人の間に生じ、結局勝利したのは李隆基で、父から譲り受けて即位、目障りな叔母を始末した・・ということになります。
 ちなみに、高松塚壁画発見の頃、墓に壁画があることで話題になった懿徳太子や永泰公主は、中宗の子供達で武則天に反逆したということで殺され、復位した中宗が墓を作り直したものです。
2006-07-12

李白

李白

 花間 一壷の酒   独り酌みて 相親しむ無し
 杯を挙げて明月を迎え  影に対して三人と成る 
 月 既に飲むを解せず  影 徒らに我が身に随う
 暫く月と影とを伴いて  行楽 須らく春に及ぶべし
 我歌えば 月徘徊し    我舞えば 影零乱す
 醒むる時 同(とも)に交歓し 酔うて後は各々分散す
 永しえに無情の遊を結び  相期す遥かなる雲漢に


花が咲いているというのに、誰も一緒に飲む奴がおらん。
月が上ってきた! やあ、乾杯! これで自分の影を入れて3人になったぞ。
けど、お月様は、酒の味を知らんし、影のやつはおれにくっついてるだけ。
しかしまあ、今は、月と影と一緒に、しばらく春を楽しもうではないか。
 おれが歌えは、お月様は、ゆらゆらまわり、
 おれが踊れば、影のやつも、へろへろ踊りよるわい。
 まだ意識のあるうちは、一緒に楽しくやろうよ。
 酔いつぶれてしまえば、お互い、ばらばらだけど、
 今後とも長いお付き合いを願って、いっそ、天の川ででも、また、あいましょうや。

 この冬の寒い時に、季節外れの春の歌ですみません。
 今日12月8日は、姑の命日です。姑が、この李白の月下独酌がとても好きだったもので、あえて、李白さんに歌って、踊っていただきました。
2005-12-08

玄奘

玄奘

 三蔵法師といえば、玄奘ですが、経・律・論を極めた僧の尊称だそうで、三蔵法師は他にもいるわけですが、この人が一番有名。
 言うまでもなく岩に閉じ込められていた孫悟空を解放して、天竺にお経を取りに行く旅のお供をさせるのが、小説の「西遊記」なのですが、西遊記の中では、本当に軟弱というか、いつも怪物や妖怪にとっつかまって「坊主の肉を食いたい」やつらにエライ目にあわされ、あわやというところを孫悟空に助けられる「お姫様」キャラです。
 しかし、実際には、どうしても本場の経典を学びたいという情熱に突き動かされて27歳の時、密出国をして旅に出たのです。17年に及ぶ修行と経の収集の後、帰国し、持ち帰った経典の翻訳をしました。だから、地味ながら確実な仕事をした意思強固な僧侶で、けっして、「悟空! 助けておくれ!」ときゃあきゃあわめくお人じゃありません。
 有名な画像は、首に、9つの髑髏をつらねた飾りを下げた旅装の絵(これは後に沙悟浄のスタイルになりました。日本では彼はカッパと言われていますが、西遊記では、ただの水妖です)が有名ですが、僧侶としての肖像画での落ち着いた姿にしてみました。手にお経を持つのがお約束です。背景は「大唐西域記」です。
2005-11-08

安禄山

安禄山

葡萄の美酒 夜光杯
 飲まんと欲すれば 琵琶 馬上にうながす
有名な涼洲詞の一節ですが、これぞシルクロードロマンの極めつけ! ワイン。黒玉の透き通ったグラス。馬に乗った楽隊! 飲むのはやはり、西域の人物が似合うでしょう。
 安禄山はイラン系とトルコ系のハーフで、名前もアレクサンダーだったと言う人までいる(じゃあ賀六渾はガラハットか? 璽朱栄はテーセウスか? 忽必烈フビライはフェビウスか?・・なんて突っ込みはやめよう。語呂合わせ空耳ジョークです)。
 李林甫の政策によって、武官として勢力を伸ばし、節度使(まあ、半ば独立軍事国家の武士団みたいなもん)となり、大勢の養子(いわば命がけの子分)を抱えて、一大勢力になりました。
 この武装「国家」が反乱を起こして、結局これで唐王朝は傾き、楊貴妃も死にましたが、時代を動かしたのは間違いないでしょうね。
 宮廷を我が物顔で牛耳った頃は、腹がでっぱって、とっても太っていた(このでっかい腹を切られて死んだ?)そうですが、若くて草原を駆けていた頃は、スマートだったでしょう。宝塚では美形だし・・。
 唐代の壁画の西域人風に、若い安禄山を描いてみました。
 今夜は満月ですので、月に乾杯! 
2005-09-18

李林甫

李林甫

の最盛期といえば、玄宗皇帝の時代でしょうか。才知あふれる詩人や、文学芸術に花開いた時代でもあります。
 この玄宗皇帝の治世の後半に、19年も宰相を勤めていた皇族出身の人物です。それまで、朝廷で実績を上げていた科挙出身の(つまり試験を受けて実力を認められた)官僚を、手段を選ばず排除して、安録山などの怪しげな武官を引き入れ、安史の乱を招く原因を作った・・などと言われていますが、個人としては有能であったようです。後に楊貴妃の引きで出世してきた楊国忠と勢力を争っていましたが、結局、彼の死後、後釜にはこの楊国忠がおさまり、安録山たちも図に乗り、国は傾きます。
 しかし、彼の何が有名かと言うと・・
口に蜜あり 腹に刀あり
 つまり、言っていることは心地よいが、ハラの中では刀を隠していると、評されていることでしょう。
2005-09-13 0

李世民

李世民

 唐の王朝を開いたのは高祖李淵ですが、隋末の混乱をまとめ、数々の敵を打ち破って父を皇帝にまでしたのは、次男の李世民の力に負うところがほとんどです。
 軍事権を持ち、人望も実力もある弟を疎んじた長男の皇太子が、ひそかに抹殺を企てるも、李世民は、先手をとって、東宮を襲って滅ぼしてしまいました。そして、父帝の前に出て「兄を殺しました。さあどうされますか?」。そんなこと言われてもなんと答えるべきか? 現役の皇太子殺害など立派な「謀反」です。しかし、臣下にも軍隊にも、全てに支持されている者を反逆者として処刑できましょうか。
 結局、李淵は、兄弟殺しの息子に皇位を譲って引退したのです。時に、李世民28歳。即位して太宗と呼ばれますが、中国歴代の屈指の名君として評価されました。
 ところで、小説「西遊記」の冒頭で、太宗は一旦死んで地獄に落ち、亡者たちのおぞましい姿を見て猛反省。再び生き返ったので功徳を施すために、はるか天竺にスーパー経典を取りに行く任務を与えたのが玄奘三蔵だということになっていますが、史実では、三蔵法師は不法出国に近い旅をしたようで、勿論太宗とも関係もありません。
2005-07-01
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乱読F

Author:乱読F
歴史上の人物を沢山描きたい・・。
実在・架空2000人描き

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