元禄の少年

緑の若衆

 元禄の頃・・・といえば、華麗な江戸文化の始まりです。
 華やかな時代というイメージですが、衣装も華やかで、遊楽図や屏風などにも、ことされ華麗な衣装を描くものがあります。
 古い時代の小袖なども素晴らしい文様がありますが、華やかだからといって、必ずしも女性用ではなかったのではないか・・と思っています。
 絵画などに描かれる若衆が、とても華麗な振袖を着ていたりしますから。
 そのような風俗図から、振袖姿の若衆を描いてみました。
 豪華な松皮菱の縁取りでの亀甲の文様と黒地がマッチしていましたので。裾周りは州浜風に茶色の色彩が見えているので、また違った文様があるのでしょうね。
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明正天皇

明正天皇

 奈良時代以、絶えていた久々の女性天皇は、寛永6年にわずか7歳で即位しました。
 即位の事情は、いろいろあって、父親である後水尾天皇の幕府に対するいわば「反抗」のため・・といえばいいのでしょうか。
 これまでの・・といっても860年ぶりですが、大人であった女帝と違って、幼帝にして女性という立場です。
 生母は、徳川和子・・つまり、幕府の将軍であった徳川秀忠の娘ですから、徳川家の血を引いている(という意味では、和子の母はお江の方・・つまり淀殿の妹ですから、和子の祖母はお市の方で母方では織田家につらなる)。
 もし男子であれば、徳川家の血筋ということで、幕府だって大喜びのはずなんですが、徳川和子には生まれた皇子がすべて若死にするという不幸。
 ところが夫の御水尾天皇は徳川家の干渉をうるさく思っているうえに、秀忠が気に入らん・・・ということで、この幼い姫に突然皇位を譲る。まあ・・・「お前の孫を天皇にしてやったんだから文句は言うな・・」ってとこでしょうか。
 色々事情はあれ、女帝が誕生したのですから、儀式は滞りなく行わなければならない・・。
 ところが、女帝がたってからすでに800年以上たってしまって、どのような装束で即位式に臨めばよいかわからない・・。
 そこで、参考にされたのが正倉院で、正倉院に残っていた冠の断片から女帝の宝冠を復元し。礼服を作った。
 それが、どのようなものだったかはよく分かりませんが、残っている絵図などから、能の女神がかぶる天冠のようなもので、身に着ける装束は、古代から天皇の色とされる白で、筒袖の袍と大袖の上着が作られたようです。
 それらのものから、こんな感じではないかと・・・。
 真っ白の装束は、現在の宮中祭祀にも皇后陛下が着る純白の十二単のようなものと思われます。

鷹匠

鷹匠

 大津絵の鷹匠です。「藤娘」と並んで、人気の絵だったそうです。
 藤娘が若い女性なら、鷹匠は、少年の姿をしています。
 「大津絵」のシンプルな絵柄ではなく、同じ姿で、私風で。
 長い羽織を着ていますが、浮世絵の少年の「鷹匠」などでは、紋所のはいったものもあります。
 現代の鷹匠は、野羽織にゲートル、地下足袋にハンチングをかぶっているのは、明治になってから復活した姿だそうです。

羽柴秀吉と三法師

秀吉と三法師

 映画の「清州会議」でも、名場面として登場するのは、秀吉が、三法師を抱いて登場し「この御方こそ、上様の後継者!」と宣言するところでしょうか。
 本能寺の変のあとで、信長の後継者を決める会議で、大人になっている息子たちより、二条城で死んだ嫡男の織田信忠の子供である三法師(織田秀信)こそ、正統派である・・というのは、筋から言えばそうなんでしょうが、わずか3歳ともなれば、武家の、それも戦国時代の、ほぼ天下統一を目前にした織田家の当主としてはあんまりな幼さです。
 そこを、秀吉がゴリ押したみたいな感じで、策略勝ち・・のように言われていますが、本当のところはどうだったのでしょうね。
 この場面は「絵本太閤記」の名場面で、挿絵をもとに、ちょっとカッコつけた秀吉さんを描いてみました。
 錦絵にもなっていて、衣冠姿の立派な秀吉さんと、まだ放ち髪の子供・・というところで対比されますが、わざとらしく、三法師の衣装を織田木瓜の半尻にしてみました(本来なら、織田家も桐紋を賜っていたので、正装だと五三の桐ですが、それだと秀吉とおんなじになるので、絵柄としては、秀頼とまちがえられそうなので・・・)。
2016-01-19

徳川家康

家康

 今頃、ようやく、戦国時代の最終英雄?・・・徳川家康さんです。
 徳川家康といいながら、このスタイルはまるで明治時代みたいですが、徳川幕府最後の将軍徳川慶喜が、フロックコートを着て、椅子に座っている写真をみまして、大先祖の神君にも文明開化の色合いを・・ということで、思いついてやってみました。
 まあ、大阪人の私がなんで家康どのなんやねん・・ってとこもありますが、真田幸村では大河に影響受けすぎでしょう?
 ポーズは家康さまの有名な三方が原敗戦の反省の肖像スタイル。
 今年は、没後400年の区切りでもあります。
2016-01-01

果心居士

果心居士

 日本の魔術師・幻術師といえば、果心居士が筆頭にあがるかもしれません。
 なにしろ、彼が騙したといわれる人物が大物揃い。
 まづは御大、織田信長
  街頭で不思議な地獄絵の掛け軸を見せて稼いでいた見世物興行師が評判になり、その掛け軸に信長が目をつけ、取り上げたところ、ただの白紙になっていた・・とかいう物語もありますが、信長の名物狩りにヒントを得たフィクションでしょうねえ。また、果心居士のほうから信長のところに売り込みに行ったところ、その幻術を、お館様は大いに喜ばれたけれど、お抱えにはしなかった。
 これのほうがありそうな気がします。まあ、うさんくさい手品師・・くらいにみていたかも。

 つぎは、戦国時代きっての悪人、松永弾正! 
 彼は、自分からこの魔術師に近づき親しく交際していたらしい。一説に果心居士が興福寺の僧だったという話があるので、奈良関係の人脈? ただ、あるとき果心居士が松永弾正の死んだ妻を呼び出したので不興をかって追い出されたとか。
 
 次にかかわったのが、明智光秀! 
 坂本の城で、近江百景の屏風を立てまわして、その中から船を呼び、それにのって屏風の中に去って言ったというもの。

 そして、天下人豊臣秀吉
 得意絶頂の秀吉の、とてつもない幻術を見せろという要求に、秀吉以外が絶対に知らない、彼が若い時に殺した女の亡霊を出したので、恐れ、怒った秀吉に磔にされた。「おのれキリシタンの幻術!」というところでしょうか?
 いよいよ処刑の段となって、果心居士は鼠に変身し、縄を抜けて磔台のてっぺんにのぼったところ、トンビが現れて鼠をさらっていった・・・という話です。
 本当に鼠と間違えてトンビが食ったのか、トンビは果心居士の仲間で、救出に来たのか不明で、その後果心居士は姿を消しました。
 この伝説の魔術師を、かの小泉八雲が、トンデモな設定にしています。彼は、フランシスコ・ザビエルの弟子の修道士に化けて日本に来た悪魔だというのですね。
 果心居士悪魔説は、芥川龍之介も気に入ってその設定を使っていて、しかもこの悪魔は、当時日本になかった煙草の栽培をして、煙草を広めたとか・・。確かに、煙草はあの時代にしてはものスゴイ勢いで日本国中に広がったのは事実ですが・・。どうでしょうねえ? 煙草の害悪はともかく、さほど悪いことをしていないと思うので、あまり力のない小悪魔だったのでしょうかねえ。
 しかし、キリスト教なしではありえない悪魔がザビエルさんと一緒に入ってきたというのは、ものすごく納得で、だからこそ、秀吉のキリシタン弾圧で、十字架に磔にされて逃げ出したってのは、ありでしょうねえ。その後、しばらく日本に悪魔はいませんでしたが、明治以降、また宣教師についてきて、今はいるそうです。
 ということで、果心居士が十字架から脱出というのもいいのですが、屏風から船を呼び出して絵の中に去るのは、いかにも中国古来の仙人的なエピソードで面白いし、禁断の術を使うヨーロッパの修道士だったというのも魅力的なので、光秀さんのところにあった屏風が南蛮屏風だったらどうかと思いついたので・・。
 ボートの行きつく先は、屏風の中の巨大な南蛮船で、これは、ダヴィンチの空飛ぶ船・・・かどうかはわかりませんが、面白くないです? 
2015-09-01

木村重成

木村重成

  先日、郷土季刊志「大阪春秋」の27年春号をたまたま、チラっと見たところ、例によって、大坂の陣特集でしたが、その中に木村重成の記事があった。
 木村重成と言えば、なんだか、最近はほとんど聞かないけれど、昔はものすごくメジャーだった気がする。
 徳川家康に対峙して一歩も引かなかった、大阪方の使者・・ということだったと思うけれど、史実では、大坂冬の陣が初陣で、大坂夏の陣で戦死したという人物。
 いかに、駆け抜けた青春?とはいいながら、短すぎる。たった半年! 高校野球だって3年はあるんですよ。
 しかし、短いのがどうだってことより、その余りにも短い活躍時期にもかかわらず、なんであんなに有名だったのか?・・ということを、記事にしておられたのが「木村重成論 ―重成伝承の契機と実際―石上敏(大阪商業大学大学院教授)」です。この短命で活躍時期も短かった武将が、なぜヒーローになったかということを、江戸時代から現代まで、きちんと整理して書いてあって、なるほどと面白かった。
 まあ、大衆的人気ということでは、いわゆる「判官びいき」の一形態で、悲劇的末路で、早死に、そして美形(これは多分ものすごく重要な要素)という条件がそろっているということでしょうねえ。
 それに、礼儀作法に風雅の嗜み(これが美形伝説の元)という、上品な人物であり、しかも、天下の大狸家康にも臆することのない豪胆さもそなえる・・ということですね。
 しかし、年間通じての大河ドラマではなく、1時間半くらいで終わる、がんばって2時間スペシャルのドラマですねえ。
 「完成した」木村重成のイメージは、やはり夭折の画家小林秀恒の描いたのが典型だと思うので、それ風に・・。しかし、やはり私では、あのなんともいえない雅な表情はマネできませんでしたね。
 イメージの変遷などについては、日記に書いてます。
2015-07-05

松永久秀

松永弾正

 
 岩成友道をだし、三好長慶を出して、足利義輝を出したなら、やっぱりこの人もでなくっちゃあ・・ということで、稀代の悪人と言われている松永久秀です。
 三好長慶のもとで、めきめきと力をつけ、不動のナンバー2になりましたが、陰謀をめぐらし、長慶の弟やら息子を毒殺したとか。
 長慶の死後、将軍を殺し、大仏を焼いたということで天下の大悪人だと言われたというのですが、これを言ったのが織田信長
 松永久秀にしてみたら、「お前に言われたくないわ」と思ったでしょう。
 この悪逆ぶりというのも後世の伝説で、もともと三好家の家来筋で四国の阿波から来たとか、摂津の高槻あたりの出だとか、出自も明らかでなく(根強く残っているのは斉藤道三と同郷という説。歳の差は6つくらい久秀が下)、いかにも梟雄というお膳立てがそろっている。
 しかし、若い頃はなかなかの美男子だったそう。
 気品があって趣味のよい文化人で信仰心のあつい敬虔な人だったので、比叡山を焼き討ちするような信長に愛想を尽かして、本願寺と呼応して反逆しようとしたとか言われています。
 でも、松永弾正とくれば、イメージはすごい策略家のじいさんで、爆死伝説は強烈なインパクト!
 天下の名物「九十九髪茄子」をくれてやったのに、さらに「平蜘蛛の茶釜」をくれという厚かましい信長に腹を立て、茶釜を叩き割って自害しましたが、この話が茶釜の中に爆薬を入れて腹に巻いて爆死したというスゴイ話になっています。
 なので、松永久秀の従来のイメージで描いてみました。
 若い頃の大人しげな美男子という路線で行こうかと思ったのだけれど、誰じゃ?これ?な絵になったので、やめました。

 やっぱり、松永弾正は爆発だ~!

 彼の持っていた名物「九十九髪茄子」については、日記のほうに書いてます。 
2015-05-20

岩成友道

岩成友通
 
「悪名高い」松永弾正久秀に比べたら、誰?それ? 状態なのが岩成友通
 しかし、三好三人衆といえば、ああ・・というくらい三好の悪行を代弁する三人組ですが、その三好三人衆の一人で(ほかの二人は、三好長逸、三好政康)、一人だけ、三好一族ではないんですが、いっぱひとからげにされています。
 出身地も定かではなく、大和か、京都かよくわからないけれど、三好本家の阿波ではないことだけは確かなようなので、この人も松永爺さんと同じく、現地採用なんでしょうね。
 三人衆と言いながらこの人は、将軍足利義輝暗殺は勿論、松永久秀と東大寺で戦い(この時大仏が焼けた)、義輝の弟足利義昭が織田信長に擁されて上洛してくると、織田軍に激しく抵抗し、信長が一時帰国したスキに将軍義昭を襲撃したりして(これは信長が戻ってきたので敗走)、なかなかしつこい戦いをしてます。
 結局、最終的には淀城に立てこもっていたけれど、織田軍に内通していた部下の裏切りによって落城。
 その戦闘の折、敵と組みあいながら堀に落下して打ち取られました(三人衆の残り二人は、三好氏の本拠地阿波にのがれて行方不明になってますので、最後まで戦ったのは彼一人ということになりますかねえ。
 別名を岩成長信といったそうですが「俺の名前を逆さ読みしたみたいなやつに負けられるか!」って思っていたかどうかは知りませんが、年齢は、ほぼ信長と同年配だったようです。
 で、岩成友通の絵としては、幾芳の敵兵を踏みしだき、髪を逆立てた勇猛な錦絵がありますが、あえて、一歩引いた感じで。
 三好三人衆の中では比較的年齢も若く、一族でもないので、自分独自の行動原理を持っていたのかな・・とも思えますので。
 衣装は、三好時代を描いているかもしれないという、かの「高尾観風図屏風」の宴会する男たちの中の一人の衣装です。
 辻が花の小袖に、段替わりの肩衣袴で。
2015-05-27

三好長慶

三好長慶

いわゆる天下統一を目指した3人、信長、秀吉、家康は、あまりに有名で、おまけに性格も容貌も違い過ぎて際立っているので、キャラが決めやすく、ホトトギスの狂歌にも、いかにもってところです。
 しかし、この信長に先立ち、畿内を支配して一時的に京都を平和に導いて人物が実は三好長慶です。
 この人の死後、三好三人衆などが、将軍足利義輝を殺したりしたので、三好党と言えば悪人風ですが、長慶は、ちょっとした戦国の覇者的なイメージがあるんですね。
 しかし、他の戦国大名と違って、なんとなくスルーされるのは、やはり三好三人衆のせいか・・?
 肖像画は、三回忌に描かれたということですが、なかなかによい表情をしていると思います。
 42歳なのですが、少し髪が薄い感じがするのは病気せいかなあ・・? 
 直垂には桐の紋がついていますが、これは多分将軍家からの拝領紋でしょう。
 三好家の紋は三階菱です(かの有名な信長像も桐の紋のついた肩衣袴を着ていますが、これも拝領紋です)。
 肖像画は斜め左向きですが、正面向きは割と目が印象的なんじゃないかなと・・・私風に。
 侍烏帽子を三階菱にしようとしたのですが、わざとらしくなったので、ごくフツーに見えるように訂正しました。
 三好長慶の本について、ちょっと日記にも書いています。
2015-04-28

歩き巫女

歩き巫女

 歩き巫女は、神社に付属する巫女ではなく、流浪の女占い師のようなもので、町や村を流して歩く。
 吉凶を占ったり、依頼を受けてお祓いのようなことをやったり。
 独特の調子をつけて祝詞のようなものを歌うのが、芸能に近い部分もあり、売春もしたとされています。
 岩佐又兵衛かとされる洛中洛外図屏風舟木本に登場する、歩き巫女の3人組から私風に描いてみました。
 巫女は鈴と扇を持ち、白い上着を小袖の上から羽織っています。
 侍女は普通の小袖姿で傘をさしかけます。
 後ろから太鼓を持っているのは禰宜で、一応神事服らしい白装束の上下。
 巫女も禰宜も口を開けているように見えるのは、祝詞をうたっているからかも。

 洛中洛外図上杉本(かの狩野永徳と言われるにも)歩き巫女らしき人物は登場しますが、こちらは白い上着を頭からかぶりその上に笠をかぶった姿で金を持っています。
 その他「巫女」について少しこちらに書いています。
2015-04-18

東インド会社のオランダ人

東インド会社のオランダ人

 長崎諏訪神社祭礼図屏風というのがあります。
 いわゆる祭礼図屏風なのですが、製作は元禄年間とされているので、鎖国してからのものです。
 しかし、日本における外国人表現としては、比較的穏やかというか、マシで、いかにも外人顔に鼻と目を大きく、赤ら顔の巨人に描くという筆法とはやや異なるような気がします。
 まだ、鎖国して間がない上に、長崎という場所は、オランダ人がいたので、さほどデフォルメされていないのでしょう。
 祭礼の見物席は、桟敷になっているところが、「貴賓席」らしく、家紋入りの幔幕を張って武士などが並んでいますが、その一画はオランダ人がいます。
 家紋ならぬ東インド会社のVOCのマークを丸の中に染め抜いた幔幕をはり、手前に緋毛氈を垂らして、祭を見物するオランダ人は、黒い服を着て帽子をかぶり、談笑しながら楽しそうです。
 グラスを手にする人物はグラスが白っぽく見えるのでサケでも飲んでいるのでしょうか?
2015-04-01

足利義尚

足利義尚

 足利義尚と言えば、強烈な母日野富子と、無気力な芸術家肌の父足利義政の間で、翻弄されて短命に終わったみたいなイメージです。
 しかし、ただでさえややこしかった時代に、彼が生まれたことにより応仁の乱がおこり、結果的に幕府の弱体化を招いたということは、まさに時代の子だったと思います。
 しかし、たった8歳でこの混乱の時代に将軍職につかされた本人にどんな自覚があったでしょうか?
 「室町絵巻の魔力」(高岸輝・吉川弘文館)を読んで、室町時代の絵巻というものがなかなか面白いなあと思い始めました。
 貴族や寺社などの社会の狭い範囲で鑑賞され、作られていた絵巻が、次第に民衆の説話などになってやがて大衆文学が目覚める前段階での絵巻物の存在はなかなか興味深いですが、その過渡的な時代にあって、絵巻の愛好家であり、収集家でもあったのが他ならぬ足利義尚です。
 従来型の絵巻だけではなく、このころに新しく物語性を持って作られ始めた小さいサイズの絵巻にも並々ならぬ関心を示していたそうで、彼が収集した多くの絵巻物(かなり強引な方法だそうです・・ある意味、後に信長が茶器を集めるにも似たところがあるような)は、結局、父親の義政のコレクションと一緒になってしまったようです。
 本来は将軍として忙しく戦場を駆け巡るよりは、好きな絵巻に囲まれて日がな一日、閉じこもっていたいタイプだったんでしょうねえ。早く生まれすぎたオタク(悪い意味ではありません)文化人でしょうか。
 江戸初期に波乱万丈の極彩色エンターテイメント絵巻を作った岩佐又兵衛作品などを見せてあげたかったですねえ・・ということで、顔だけ岩佐又兵衛風にしてみました。
2015-03-01

小天狗と冷泉

小天狗と冷泉

 源氏の御曹司牛若の霊力で呼び出された小天狗の肩に乗って飛翔する冷泉です。
 これは岩佐又兵衛の絵巻として伝わるMOA美術館所蔵の「浄瑠璃物語絵巻」の一場面。
 この物語は、若き源義経と浄瑠璃姫の悲恋を題材にしています。
 絢爛豪華な、これでもかというほどの装飾過剰な室内や、豪華な御殿などが知られていますが、ストーリーは、前半の若い二人のじれったいほどの言葉過剰の恋愛模様と、後半部分の、乱万丈、荒唐無稽の伝奇的要素満載ぶりの展開の速いドラマとはちょっと違和感はありますが、色んなものを詰め込んだゴージャスなエンターテイメントだったと思います。
 その後半では、牛若は、姫と別れた後、旅の途中で重病に陥り、宿の主人に砂浜に捨てられます。
 八幡神に教えられて牛若の危機を知った浄瑠璃姫は、侍女の冷泉を連れ、慣れぬ旅をして駆けつけます。
 しかし、すでに死んで砂浜に埋められていた牛若を掘りだし、天照大明神に祈って蘇生をさせるという、これまた伝奇的展開ですが、この蘇生の祈祷を行うのが冷泉です。
 蘇った牛若は、平泉への旅を敢行するために、姫たちは屋敷に戻って帰りを待っていてくれと、大天狗、小天狗を呼び出し、二人の女性を送り届けさせるのです。
 こんな便利な妖怪?を駆使できるのなら、最初からこれに乗って平泉に飛んでいけば、途中で病にかかることもないのに・・というのは言わないでおこう。

 この絵巻に登場する天狗はおなじみの鼻の高い山伏姿の下駄をはいた天狗ではなく、くちばしがあるので烏天狗だと思いますが、立派な甲冑を着て、羽衣をなびかせ、黒雲を踏みしだいて空を飛びます。
 小さな(いや小さく見える)姫をちょこんと肩に乗せた大天狗の方が迫力はあるのですが、大天狗の後ろを飛びながら、少し目を上げて、肩の女性を見返っているような小天狗のほうが愛嬌があるので、こっちを描いてみました。
 冷泉は、ただの侍女ではなく、祈祷ができる巫女的要素を帯びているみたいなので、怖がっているふうではないだろう・・ということで。
 この絵巻については、また別に書いてます。
2015-02-21

足利義輝

足利義輝

 室町幕府第13代の将軍足利義輝。最後の将軍義昭の同母兄。
 剣の達人として名高いので、ゲームのキャラとしては重宝する存在かもしれません。
 弱体化した戦国時代の公方として、父親の足利義晴とともに子供の時から苦労していますが、11歳で将軍職についてからも、細川氏や三好氏の抗争に巻き込まれ、あちこち放浪します。
 しかし、諸国に割拠する戦国大名をたくみに取りいれることで幕府を立て直そうとしましたが、三好長慶死後に、実権を握ろうとした松永久秀と三好三人衆が起こした永禄の変で、将軍の二条御所が襲撃され、足利義輝は刀を振るって奮戦するも、討ち死にします。
 「謎解き洛中洛外図」(黒田日出男・岩波新書)を読みまして、足利義輝に興味を持ちました。
 この本に関しては、また別のところに書きますが、国立歴史民俗博物館所蔵の肖像画から描いてみました。
 剣豪将軍と言われていますが、おとなしげな風貌です。
 衣装は上半身が透ける単衣の直垂(腰ひもが白いのと、肖像画を拡大してみますとうっすらと袖先に露が描かれていますので、素襖ではないと思います)に、段代わりの小袖を着ています。
 背景は洛中洛外図上杉本の花の御所です。
2015-01-25

北政所

北政所

 本日はまた地味で、前回の坊さんに続いて今度は尼さんです。
 ですから出家した時のように高台院というべきかもしれませんが、北政所の方が一般的なので、こっちの名称を使いました。
 豊臣秀吉の奥方ねねさんです。今では「おね」とか「ねい」あるいは「ねー」と言ったというのが最近の流行でしょうかね。
 今年は大阪夏の陣400年(去年は大阪冬の陣400年でした)ということでまたまた大阪城近辺は盛り上がるのかも。
 先日、またしても「豊国祭礼図を読む」(黒田日出男・角川選書)を読みまして、まあ、いろいろ面白かったんですね。
 あの屏風絵には立場上、祭の主催者である北政所が描かれているのですが、その風貌をめぐっての面白い解釈でした。
 淀殿、秀頼の注文による祭礼図には、北政所がしわくちゃばあさんに描かれ、北政所注文の祭礼図には上品な尼僧に描かれたという、まあなんともユニークな説ですが、本人や親しい人からの注文による肖像画は美化されている可能性が大いにあるのですが、醜く描くというのもありなんかなあ?
 淀頼母子がそんな子供じみたことするかなあ・・という気もしますけれど。
 北政所が出家したのは50代の半ばですから、当時としてはすごいおばばでしょうけれど、まあ、多少は美化されたものの上品な絵姿に仕上がっている肖像画は若作りなので、その雰囲気で・・。
 肖像画の一つに赤い法衣を着たのがあったので、華やかに。その方が蒔絵に似合うでしょう?
2015-01-17

花下遊楽図の少年

花下遊楽図の少年

以前に「花下遊楽図屏風」の女主人を描きました。
 「日本の国宝、最初はこんな色だった」(小林泰三・光文社新書)が、面白くて、ドキドキして、思わず私も色を付けるぞ~! という感じで、勢いで描いてしまったのですが、またまた、同じ小林泰三氏の「国宝よみがえる色彩」(双葉社スーパームック)を買いまして、今度は同じ屏風のもう一面の主人公である少年を描いてみました。
 踊りの輪を見下ろしながら、手を膝において、左足で拍子を取っている様にも見えます。
 口元もよく見るとすこし開いているようで、小さな声で歌っているのかもしれません。
 秀頼ではないかといわれているのですが、醍醐の花見の時だとすると6才。
 それにしては大人びていますが、黒紅の打掛の女主が若々しく見えて、子供は大人っぽく描くのは、画家の「工夫」としては、ありでしょうねえ。
 絵師の狩野長信によって、これが描かれたのは元和年間ではないかという説があるのですが、それだと、すでに大阪の陣も終わってからですから、あえてこの二人を主人公にした屏風というのは鎮魂の意味もあるかもしれないですね。
 そして、この少年の着ている着物も、疋田の総絞り染めで、時代的にも江戸の初め頃のものと思われます。
 髪型がよくわからないのですが、総髪を肩に垂らしているというのは、大人びて見えるとはいえ、満年齢で5歳の子供ならありなのかも。
 しかし、秀頼は、秀吉のあせりもあってか、4歳で元服(なんぼなんでも早いと思うけど)しているので、実際は、醍醐の花見の頃は大人のスタイルをしていたかもしれませんけれど・・。
 映画のラストエンペラーのちっこい溥儀みたいなもんですね。子供なのに、皇帝の衣装を着ていましたよね。
 ところで、今回大画面で花下遊楽の女主人の復元図を見て、私の早とちりがわかりました。
 女主人は、切り髪にしていたわけではなく、長い髪を打掛に着こんでいました。
 そのラインがあんまり明瞭でなかったので切り髪と思ったのですね(あえて、昔の絵は訂正しませんが・・。)
 この屏風のことについては日記にも書きました。
2014-11-20

京極竜子

京極竜子

 京極高吉とマリアの娘
 武田元明の妻。夫元明は、幼いころから朝倉氏の人質同然であり、旧領は、実質、朝倉氏に支配されており、織田信長のもとでも旧領は戻らず、丹羽長秀のものとなり、心底面白からぬことが続いていたようです。
 そのためか、本能寺の変の後、明智光秀側についたため、丹羽長秀に謀殺されることになるという悲劇の人です。
 この人の妻であった京極竜子は、捕えられ、秀吉の側室とななります。
 3人の子持ちとはいえ、夫の元明が21歳だったところを見ると、彼女も若かったのでしょうね。
 絶世の美女だったとも言われています(その時、彼女の息子たちがひそかに北の政所に引き取られて育てられたという説があるそうですが、果たしてどうなんでしょうねえ)。
 松の丸殿・・あるいは西の丸殿と呼ばれます。
 浅井家の主筋にあたる京極家の娘だったので、秀吉の側室の中では、身分は、淀殿より上だったので、まるでマリー・アントワネットとデュ・バリー夫人のように、醍醐の花見の折に「席次」を争ったというのは有名ですが、秀吉没後は、秀頼の御生母であった淀殿より、子供のいなかった彼女のほうが身の安全を図れたのかも。
 腰巻装束というのを一度描いてみたかっただけなのですが、打掛は、能楽の火炎太鼓の唐織です。竜女の衣装になっているのを見たことがあるので、竜子さんにもいいかな・・と。
2014-11-09

京極マリア

京極マリア

 本名はわかりません。洗礼名のマリアのみ伝わります。
 本姓は浅井氏ですが、細川ガラシャの例のようにキリシタンとして夫の姓を名乗っていたのでしょう。
 彼女の夫は京極高吉
 そして彼女の周りには「有名人」がいっぱいいます。
 系図を書けば、信長、秀吉、家康も入ってくる。
 弟が浅井長政。勿論、かのお市さんの旦那さん。
 で、姪たちが浅井三姉妹! 
 その二女の初は、強烈な姉淀殿と妹お江に挟まれて地味な印象ですが、京極マリアの息子の高次の嫁です。
 娘の竜子は、未亡人になったあと、秀吉の側室になります。
 彼女と夫の高吉は、安土でオルガンティーノに洗礼を受けますが、キリシタンにとって世の中はだんだん不穏になり、とうとう迫害がはじまります。
 26聖人の殉教の折に、かねてより親しかったパウロ三木が捕えられたとき、牢に訪ねたり、都で引き回される彼らのあとを涙を流しながらついて歩いた・・というのもありそうですね。
 夫の高吉は洗礼後すぐに亡くなっていますが、彼女のキリシタン人生は波乱含みです。
 徳川政権下で城主になった息子の領地丹後でひっそりと人生を終えたとのことです。
 晩年は尼僧になったということになっていますが、信仰生活を続けていたんではないでしょうか。
 26聖人の殉教の時期は、彼女はすでに55才くらいであったと思われますが、仏教の尼僧の姿などはしておらなかったのではないかと思いますので、俗人の風俗で「聖人たち」のあとをついて歩く風情で・・。
2014-11-01 

丹羽長秀

丹羽長秀

織田信長の重臣。
 織田家に仕えて、家令のような立場だったのか、地味な人物・・というイメージ。
 また、秀吉にはうまくたぶらかされた・・というか・・。
 あくまで織田家の御家のためを思っていたのに、なんだか強引にサル殿に引きずられて、彼の天下取りに協力してしまい、結局いろいろ気使って、胃潰瘍か胃がんになって死んだ・・みたいなイメージですが、母親が織田信秀の娘だったとかいう説もあるそうなので、そうだとすれば、信長の甥ですよね。
 年齢も彼が一つ下。彼もまた、アグリッパだったのかしら・・。
 それはともかく、先日、大坂城にいきましたところ、まあ、今年は大坂の陣400年とかで、ものすごくにぎわっていまして、エライめにあいましたが、大阪城博物館に展示されていた「賤ヶ岳合戦屏風」が目につきました。
 これに登場する丹羽長秀は、華麗なる孔雀の羽の陣羽織姿
 こちらに孔雀の羽の陣羽織のこともちょっと書いています。
 派手ないでたちながら、心境はどうだったのかなあ・・と。
 屏風絵には、彼の隣には、更に派手な虎皮の陣羽織を着た秀吉がいますが、こっちはあまり似合ってない。
 ちょっと色合いを地味目にしてみました。
2014-10-25

茶摘女

茶摘み女

熱いお茶がおいしい季節になってまいりました。
 お茶といえば、宇治というほど名高い場所ですが、茶の木人形というものがあります。
 宇治茶師の家の上林家の当主になった上林清泉という人が始めたとか、いやもっと古くて茶人の金森宗和がはじめたという説もあるとか。
 というより、茶の木人形の展示のパンフを読んでいて、この人形を見た。
 茶摘女(ちゃつみめ)というそうですが、早乙女ほどには有名でないのは地域限定だからでしょうか? 
いやいや、♪夏も近づく八十八夜~♪ この歌を知らん人はいないでしょう? 茜襷に菅の笠~でしょう?
 ところが、この上林清泉の絵(彼は絵も描く、人形も作る、本も書くし、お茶も作る。
 マルチな文化人です)の絵に出てくる茶摘女は、菅の笠なんかかぶってないし、今ではイメージの定番の紺の絣に手甲脚絆なんかしてない。これについては、また別のところで。
 江戸時代にお茶摘みの絵見ても、女性たちはけっこう一張羅というか、晴れ着のようないい着物を着て、姉さんかぶりはしているものの、その手ぬぐいもなかなかに華やか。
 労働する姿に見立てた風俗画か・・とも思えるけれど、実際に茶摘みをするときは近隣からも女性たちが大勢集まってきたというから、ちょっとした女性の社交場だったのではないでしょうか。
 ということで、上林清泉の茶の木人形から描いてみました。
 赤と青のまるでフランス国旗のトリコロールのような色合いの手ぬぐいを頭にかぶり、赤い前掛けに首から籠をさげて、働く姿ですが、着物は裾長に着ています。おはしょりが籠の下から見えている。
 着物の柄は、一見、梅文様に見えますが、茶の花だそうです。
 これは、いかにもふさわしいですねえ。茶の花自体もきれいだし。
 人形の彩色なので、イマイチ詳細がよくわからないのですが、ぽつぽつと描いてある丸い赤いのはなんだか不明なので、茶の実文様を散らばしてみました。帯は、人形も豪華な色彩の亀甲文です。
 昔の絵にも亀甲の帯や、前掛けにも亀甲柄があるので、目出度い図柄をあえて選んでいるのでしょうね。
2014-09-20

徳川和子

徳川和子

 東福門院として知られる徳川和子(まさこ)です。
 徳川秀忠の娘で、後水尾天皇の後宮に入内しました。
 幕府からの御所の監視のために押し付けられた妃と反発する天皇と、何が何でも徳川の血を引く皇子を皇位につけたい幕府側との間にあって、大変な苦労をした人です。
 江戸幕府当初から「公武合体」は女性が苦労しているのです。
 しかし、この人は秀忠の娘で、母はお江与の方・・江姫ですから、母方からするとお市の方の孫娘。
 つまり伯母が淀殿で、姉が千姫なわけです。
 政略と計略の中で翻弄された女性たち・・というには、皆かなり意志の強い女たちではないでしょうか。
 気難しく高貴で難儀な夫天皇との間に子供を7人も生みますが、不幸なことに生まれた男子はすべて早世します。
 いろんなことで、幕府に対して反発を持った天皇は、遂にキレて、長女の興子(おきこ)内親王に皇位を譲って隠居してしまいます。
 あたかも、「どや!お前の孫をちゃんと天皇にしてやったやないか!」というイヤミでしょうかね。
 当時の発想だと、いくら徳川の血筋とはいえ女性天皇では一代限りで、結局、側室の産んだ皇子を後継者としなければならないんですから。
 ここで、和子がもうひと頑張りして「娘に娘を産ませて女系で皇位を継がせます! 後宮に元気な美男をいっぱい入内させなさい!」 なんて「逆転大奥」みたいな話になれば面白かったかも・・。
 という冗談はおいて、和子は古風な宮中に、小袖文化を持ち込み、ファッションリーダーとして、名をはせました。
 彼女が雁金屋という呉服商を取り立て、斬新なデザインの小袖をたくさん注文したのは有名です。
 勿論、自分も着たのですが、宮中の女官や公家の奥様方にも気前よく小袖をプレゼントしました。
 最新流行の着物をもらって嬉しくない女性はいないでしょうから、たちまち京はファッションの町となります。
 雁金屋は尾形光琳、乾山兄弟の実家です。
 ということで、最近、寛文小袖を復元したのを特集していた本を見まして、ちょっとこの方を描いてみました。
 勿論、一着に及ぶのは江戸時代のファッション誌「雁金屋「御用雛型帳」に載っている東福門院御用達の小袖。
 打掛に着て、髪型はおすべらかしではなく根結い垂髪です。
2014-02-23

江戸時代の大阪画壇

江戸の大阪画壇

 江戸時代の画家として、江戸画壇京都画壇はあまりに有名で、それぞれの絵師ということであれば、だれでも知っている人がいるのですが、江戸、京、大阪と並び称された三都としては、大阪画壇の絵師たちは有名ではありません。
 勿論、その当時は別ですが、現在では、はて誰がいたっけ?などと言われるようになっているのは確か。
 かくいう私も、具体的にその絵となるとすぐには思いつきません。
 しかし、まあ、以前Pixivで、京都画壇などをネタにしている清華さまイラストなどを見ていますと、やはり、ここは大阪画壇などもやってみたいなと・・・。
 大岡春卜(おおおかしゅんぼく 1680~1763)
  狩野派を学ぶ、大阪画壇の創設者とも言うべき大家。絵画は勿論、中国文学、和歌に音曲、狂歌と多芸多才な人物。背景はずっこけたウサギの絵。

 月岡雪鼎(つきおかせってい  1725~1786)
  大阪の浮世絵師。西川祐信の影響が強いのですが、曽我蕭白の兄弟弟子。美人画で名を上げ、彼の春画は火事を防ぐと言われ大人気に。最近わりと名前を目にするかも・・・。

 長山孔寅(ながやまこういん  1765~1849)
  秋田県の出身。京都で四条派に学び、呉春の弟子。
 後大阪に出ますが、孔寅という名に号は子亮というからには諸葛孔明を意識してるだろう?と勝手に決めつけました。柿渋団扇に羽扇の絵を描き、頭に豆絞りの手ぬぐいです。

 岡田半江(おかだはんこう   1782~1846)
  絵師ですが、本業は米屋の旦那。と言っても江戸時代の大阪の米屋ですから蔵屋敷などを取り仕切る経済界の大物。大塩平八郎と親しく、乱ののち住吉に転居。

 金子雪操(かねこせっそう   1794~1857)
  江戸の出身。伊勢で絵を学び、京都から大阪に来ました。ものすごい貧乏暮らしをしながら清雅な絵を描いていて、吹田のパトロンに招かれて暮らしていたこともあったとか。
※ 吹田市博物館で今度、展示があります。

 勝手なイメージで、5人並べてみました。
2013-08-04

辻が花の女

辻が花の女

 現代でこそ、上品な花文様などの絞り染めということで、着物などにも用いられる有名な「辻が花」ですが、そもそも、どういうものであったかはよくわかっていません。
 だからこそ、幻の辻が花などと呼ばれて、神秘的なのでしょうが、室町から江戸初期でその染色が絶えてしまったのですね。
 ややこしい手順の割には、大した柄にはならない(失礼)ような染物より、自由に絵でも描くように染め上る友禅染めの技法が出てきてすたれてしまいました。
 絶えた技術・・というのはまあ幻なものですから、よけいロマンをそそるかもしれません。
 しつこくこだわっています「高尾観楓図屏風」は、登場する男衆や、寺の美童などを描いたので、女性から、濃い紫地に辻が花染めの着物を着た侍女を描いてみました。
 画集で見るとこげ茶色になっているのですが国立歴史民俗博物館に断簡が残る、濃い紫地の白上げの辻が花が、少し変色してこげ茶色に見えるので、もとは紫ではなかったか・・などと思いつきましたので。
 おそらくこの屏風の描かれた時代こそが辻が花の全盛期だったかも。
 この屏風では、女性で2人、男性でも一人が辻が花染を着ています。
2013-07-31

踊る若衆

踊る若衆

先日ボストン美術館展にやっと行ってまいりました。
 曽我蕭白のすごい龍の目玉はともかく、一緒に展示されていた「邸内遊楽図屏風」の中で、踊る若衆グループにちょっと目が引かれました。
 というのも、この踊るグループは、後ろに太鼓や鼓などの楽団を控えさせて総勢13人のメンバーで踊っています。衣装は4種類ありますが、どの着物にも向かい蝶の大きな文様がついていて、これは一座の印なのか、このユニットの紋所なのか? 
衣装の色は赤、黒、金茶、雲文の4種類で、赤と黒がそれぞれ4人。金茶が3人、雲が2人といったところが絵に描かれています。
 で、そのうち、赤い着物の若衆と、菊文様の黒衣装とを描いてみました。
 なぜか気になったというのは、実はこの赤地の入れ子菱に大きな紋所風の文様の着物というのが実在するのですね。
 厚板という能装束の一種で、蝶紋こそはありませんが、いくつかの紋づくしですね。時代は桃山時代だそうですが、男役の小袖ですから、意外と芸能の世界は近いのではないか・・などと思った次第。
 何の踊りをしているのかわかりませんが、紫の鉢巻きや長く垂らした前髪など、当時のポップなヘアスタイルだったんでしょう。
2013-06-25

宴席の男たち

宴席の男たち

 狩野秀頼「高尾観楓図屏風の中に登場する宴席の男たちです。この屏風絵については、こっちにもちょっと書いています。
 この屏風に描かれる人物の服装がなかなかに面白いのですね。
 紅葉の名所高尾で宴会する男たちは6人いて、そのうちの左側の4人だけを描いてみました。
 中央で踊る男は、有名な「織田信長像」の肩衣袴スタイルとよく似た服装をしています。
 袴は黒地ですが、信長さんと同じ腰下に二本白い染め抜き線の入った二両引き。小袖の下着は紅色の鮮やかなもの。信長さんも襟元からのぞく下着の襟は派手ですよね。
 手前にいる若いの(この人物だけが髭をはやしていません)は、上下揃いの肩衣と袴の姿で、後に武士の裃になる、ややあらたまったスタイル。 
 左で小鼓を撃つ男は、胴服という、いわば羽織のようなものです。これは直垂や素襖などの武家の服装の上着だけを小袖の上に羽織ったものですから、袖口は広く開いています。
 もう一人、右側に大鼓を打つ男もいるのですがこれは肩衣袴スタイルで、手前の若いの同じ服装なのでやめました。
 酒器や重箱のそばにいて手拍子している男は、いわゆる陣羽織形式の袖なしを着ています。胴服を甲冑の上に着るために袖を断ち切ったと言われていますが、どちらの服装も平行してあったんでしょうねえ。
 男ばかりだというのに、華やかであでやかな装いですね。着物に凝っていたのでしょう。
 当時日本に来たた宣教師たちが、男も女も同じ着物を着ているし、派手だ!と言っていますが日本の着物は華やかにうつったんでしょうね。着物の構造的には、ヨーロッパほど男女差は目立ちませんからねえ。
 ただ、屋外の宴席だというのに、緋毛氈などがしかれていません。敷物が登場するのはもう少し時代が下がります。
2013-05-23

伊勢参りの男

伊勢参り

 江戸時代の終り頃、伊勢参りが流行しはじめます。
 地方の村では、積み立てをして、団体ツアーを組んでいったようです。今でも、どこどこのツアーということで、揃いのバッジや、タグなどをそろえるようですが、この伊勢参りは、揃いの衣装に、揃いの手ぬぐいまで染めて、同じスタイルで、わいわいとかけたようです。
 吹田市にある吉志部神社(重要文化財であった旧社殿は、2008年に焼失しましたが、現在は再建されています)が所蔵していた絵馬に、岸部東村の伊勢講のメンバーが、揃いの衣装で伊勢参りをする姿が描かれています。
 どの人物も、まるで役者絵のように、当時のイケメン風に描かれていて面白いので、そのうちの一人を。
2012-10-09

水茶屋の女

水茶屋の女

 本当にお暑うございます。
 暑すぎて、気力体力ともに減退ですが、皆様方にはお元気でお過ごしでしょうか? 
 ということで、冷たい水でも一杯・・と言いたいところですが、江戸時代には、冷蔵庫はありませんし、氷は貴重品ですから、猛暑のころでも「喫茶店」でも、衛生観念上、温かい飲み物を出したようです。
 しかし、気分的には、すずしげなぎやまんで、冷やっこい水など飲みたいですよね。江戸切子が登場するのは天保をすぎてからなので、やや時代錯誤ですが・・。

※ 江戸っ子は虫歯しらず?<江戸文化絵解き帳>
2012-08-05

シドッチ神父

シドッチ神父

 屋久島では彼の上陸地点に碑文が立っていたりして有名人のようですが、少しマイナーかも。
 ジョバンニ・バッティスタ・シドッチは、キリシタン禁令下の最後の宣教師。
 18世紀に入って日本に潜入。髷を結って刀を差し、着物を着て日本人に変装して上陸しましたが、すぐに捕えられて長崎から江戸に送られました。
 日本での宣教活動はなかったのですが、江戸で幽閉されている時に、新井白石と対談し、その内容を白石が「西洋紀聞」として著したので、日本人に世界の知識を与えた人物の一人です。
 屋久島で没収された彼の所持品も、後に江戸に送られ、その中にフィレンツェの画家カルロ・ドルチの「悲しみの聖母」があったのですね。その絵はドルチの一連の「悲しみの聖母」の絵のシリーズ?の中でも、ボルゲーゼ美術館にある「親指の聖母」と呼ばれる、青い衣から親指だけが見えているという絵柄で、現在は東京国立博物館が所蔵しています。
 手が全部見えているほうの「悲しみの聖母」は、国立西洋美術館にあります。
 結局、幽閉された彼の身の回りの世話をしていた夫婦に洗礼を施したので、待遇を落とされ、まもなく獄死したそうです。
 肖像画としては、侍姿の絵の温厚そうな横顔しかないのですが、シチリアはパレルモの生まれというので、なんとなくコワモテ風の濃い顔のイタリア人のイメージがわきましたので、「これだけ伸びれば、髷が結えるだろう?」と言っているイメージです。
 ミラノ出身の宣教師カスティリオーネは、奇しくも同い年です。
2012-05-02

伊藤若冲

若冲

やっぱり江戸の奇想画家とくれば、3人セットみたいなもんですから、伊藤若冲も出します。
 流行ってますしねえ・・。
 曽我蕭白は生活のため(妻子を養うため)、不本意な仕事もせねばならず、息子に死なれてから、気力も衰えて3年後に52歳で死んだし、長澤蘆雪も46歳で急死し、傲慢な性格から毒殺説も出る程ですが、伊藤若冲は、妻も娶らず、85歳という高齢まで、ひたすら、好きな絵だけを描くという生活を送りました。
 商人の跡取りながら、家業をついでも仕事は熱心ではなく、職場放棄をしたりするような「社長」だったので、40歳の時、弟に店を譲ります。
 男の娯楽、呑む、打つ、買うは一切やらず、お寺の仕事をしていた関係か、剃髪しても別に仏道修行をするわけでもなく、ただただ絵を描く・・。ある意味、ものすごくオタクっぽい人物だったかも。
 特徴的な、極彩色の鳥の絵は、見ているとちょっとイライラするような雰囲気がありますが、印象的なのは、やはり真正面から見た象の絵でしょうね。横を向いて鼻を上げている像も目が笑っているようで、可愛いのかブキミなのかわかりません。
 迫力のあまりない「猛虎」を膝にのせ、背景に目つきのコワイ象を貼り付けてみました。 
2012-04-24
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