末弘ヒロ子

末弘ヒロ子

 なんとも、あんまりひねりのない名前というか、素直すぎる感じがします。
 しかし明治の世の中では、女性は結婚すると姓がかわるので、せめて実家の姓の一部でも残しておこうかというつもりだったのか・・?
 この人は、明治41年に行われた日本初のミスコンの第一位になった「美女」で、当人は全く知らぬ間に、姉婿が勝手に応募してしまい、日本一の美女になってしまったんです。
 それなら、今でも、友達とか兄弟がが勝手に応募してアイドルになったとか、そんな話はままありますが、なにしろ、明治時代のお嬢様だったから大騒ぎ。
 父親はお堅い警視庁務め。本人は、女子学習院中等科在籍の、16歳の現役の「女学生」。
 しかも、当時学習院の院長は乃木希典。カチカチの軍人です。
 本人には、全くそんなつもりもなかったのに、学校でも噂になり、とうとう退学処分にまで発展。
 学校に美少女アイドルがいたらこれこそ、学校の宣伝と喜ぶ現代とは大違い、気の毒ですねえ。
 おまけに、退学を命じた院長は、このままでは、家名に傷がついて気の毒だからと、彼女を結婚させようということになった。
 ちょっと待って! それはないよ!・・と今なら言うでしょう? 
 しかし、縁談を持ち込んだのが当の院長乃木大将だし、お相手は野津侯爵家の子息だったので、両親は大喜び。
 しかし、現当主の野津侯爵は病床にあって明日をも知れぬ様態なので、子息の結婚を急がせるという事情があったんですね。
 かくして、彼女は未来の侯爵夫人・・といえば恰好がつくかもしれませんが、こんなんで、本当によかったの? 
 こっちにもちょっと書いています。
2016-02-25
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夢二館の女

夢二館の女
 
 京都で竹久夢二のゆかりの地というと、清水の二年坂です。
 今はものすごく内外の観光客が押し寄せていて、ちょっと観光シーズンには行くのを躊躇してしまいそうな場所ですが、すさまじい人の流れのある坂の途中にひっそりと碑がたっていますが、ほとんどの人が見逃していそうです。
 この夢二寓居の近くに、レトロカフェの「五龍閣カフェ」で夢二作品が少し展示されています。
 この建物は松風嘉定(しょうふうかじょう)の居宅跡で、武田五一の設計になる洋館です。
 正式名称は旧松風嘉定邸という、まんまな名前ですが。この松風さんは義歯の開発で財を成した人物ですが、竹久夢二とも親交があったということで、ここに作品があるそうです。
 この五龍閣は、なかなかの洋館で、サンルームのステンドグラスなども、ちょっと稚拙な観があるとはいえ、とても雰囲気がありますし、正面の大階段もなかなか。
 ということで、単にレトロな女性を描いてみたかったというだけの理由ですが、五龍閣サンルームの出入り口のアーチ扉を背景に貼ってみました。
 こっちにも少し記事を書いています。
2015-09-14

ブドワールの道化師

ブドワールの道化師

道化師と訳される、コミカルな仕草をする「芸人」は、その歴史が複雑で、ヨーロッパの各お国の事情があります。
 クラウンとかアレルッキーノとか、ジョーカーとか、いろんな名前がありますが、英語の道化師クラウンは、日本ではピエロと呼ばれています。
 本来は、ピエロと言うのは、クラウンの一つで、特に悲しみの役割を負っているようです。だから、正式?には、目の下に涙のしずくを描いているのがピエロです。
 しかし、日本にクラウンが入ってきたときに、「悲しきピエロ」というか、「顔で笑って心で泣いて」というのが好きな日本人の心情にピッタリきたのかもしれませんね。
 笑いものにされながら、へらへら自分も笑っているものの、心では泣いているのだというこのピエロの姿が、ただおかしいだけの道化師ではない・・というところが。
 最近、昭和初期の人形の印象的なものを見たので、その、クラウンの姿をしたブドワール人形を描いてみました。
 ブドワールというのは婦人部屋のことで、ヨーロッパでは第一次世界大戦の後、高価で貴族的なビスクドールに代わって、布を型押しした顔で拵えた人形が流行しはじめました。そのブドワール人形が日本にも伝わって、やがて日本独自のフランス人形へと発展するのですが、それは、またあらためて・・・。
 このブドワール人形の道化師は、滑稽な化粧をしているわけでもなく(やや、まつ毛は濃いですが・・)、涙を流している様子もありませんし、顔つきは、誇らしげな微笑を浮かべていました。
 白と黒の片身替わりの衣装を身に着けた伝統的なスタイルです。
 左右の色の違う衣装は、古くは中世の絵画にも描かれる「芸人」の服装です。
2013-04-08

花嫁御寮

花嫁御寮

  金襴緞子の帯しめながら
  花嫁御寮(はなよめごりょう)は なぜ泣くのだろ


という始まりの歌詞の歌は、「花嫁人形」というタイトルです。この歌の締めは、

  泣くに泣かれぬ花嫁人形は、
  赤い鹿の子の千代紙衣装

 というのですから、これは、千代紙で作った姉様人形なんでしょうね。
 この人形の持ち主は、花嫁さんの妹かも。泣きたくても泣けない状態を千代紙人形に託しているのでしょうか?
 作詞は、かの「大絵師」蕗谷虹児ですから、なんとも麗しい絵柄が浮かびます。
 姉様人形は、昔は作り方を覚えていたのだけれど、今では、ちょっと髪の結い方もおぼつかないなあ・・。最近はとんとお目にかかりませんね。
 そして、花嫁さんですが、まあ、金蘭緞子の帯はありでしょうが、昔のような黒い振袖姿もあまり見かけません。明治の終わりころから大正時代に流行ったのは、このような黒い振袖の花嫁衣装で、最初の子供が生まれた時に振袖を切って、いわゆる留袖になり、切った振袖で赤ちゃんのお宮参りの衣装を作った・・ということになっていますから(本当はそうではなくて、いわば伝説的な話でもあるそうですが・・・)そうですから、花嫁衣装は一生ものだったんですね。

 ついでに、桜の頃しきりに、思い出す歌に、「花かげ」というのがあります。

  十五夜お月様ひとりぼち 桜吹雪の花かげに 
  花嫁姿のおねえさま くるまに揺られて行きました。


この歌は、最後に
  十五夜お月様 ひとりぼち 桜吹雪の花かげに
  遠いお里のおねえさま  わたしはひとりになりました


という歌詞があるのですね。これもなんだか切ないですねえ。

ということで、レトロ感覚の花嫁さんです。
2013-04-04

コンドル

ジョサイヤ・コンドル

 ジョサイヤ・コンドルと言えば、明治のお雇い外国人建築家ですが、常に鹿鳴館とセットですね。
 勿論、鹿鳴館を設計したのですが、明治10年にロンドンからやってきた建築家で、来日以来、いろいろ政府の仕事をしていましたし、財界人の邸宅なども手がけました。
 工部大学校で教えていたので、教え子に、日本建築界の超大物辰野金吾や、片山東熊がいます。
 日本の洋風建築のはじまりは彼から・・とでもいえるかもしれません。
 そして、建築家は絵が描けなければいけないのは、ブラマンテや、ミケランジェロの昔から  当然なのですが、コンドルも大いに絵心があり、日本に来て河鍋暁斎に弟子入りし、画業修業をしています。
 二人でスケッチ旅行をした様子などを暁斎が絵日記に描いているのです。
 すそはしょりをしたじいさん先生と、ホームズみたいにパイプをくわえた英国紳士の弟子の旅日記です。
 暁斎の暁の字をもらって暁英という画号までもっていたので、立派な日本画家だったんです。
 興味は絵だけにとどまらず、日本庭園や、生け花、舞踊、歌舞伎など芝居も好きで、見るだけではなくて自分まで衣装を着けて演じていた写真があります。
 相方は、花柳流の踊りの師匠前波くめ
 コンドルが、踊りを習っていて、とうとう奥さんにしてしまった人です。
 大森貝塚でおなじみのモースが民俗学的な興味を日本に持っていたのですが、コンドルも日本の芸術に大いに関心があったようです。
 古典大好きだったフェノロサと違って、近代芸術が好きで、大いに日本情報を海外にも発信したそうです。
 和装のコンドル博士(写真では紋所がわからなかったので、花柳流の三つ桜の紋にしました)。
 背景は彼自身が描いた鷹の絵です。コンドルと鷹・・・・・・オリックス・バッファローズみたいなサマにならないダジャレですね。

ジョサイア・コンドル(建築画報社)
2012-01-12

長谷川時雨

長谷川時雨

  またしても「紅葉館」がらみの女性。ですが、この人は、コンパニオンではありません。
 長谷川時雨、本名長谷川やすは、明治初年の東京の下町に生まれた生粋の江戸っ子。
 父親は日本初の弁護士(官許代言人)の一人だそうです。
 母は、温泉旅館や割烹旅館の経営をして有能な女将だったので、請われて「紅葉館」の経理をやっていたというからには、なかなかに才能のある両親の娘ですね。
 子供の頃から文学の才能があり、読書や勉強が好きだったのですが、明治の女の子の悲しさ、お屋敷奉公をさせられ、年頃になると、親の命令で嫁入りもします。
 しかし、成金で不誠実な夫に仕えるには「有能」すぎた彼女は、離婚して文学の才能を開花させます。
 劇作家や舞台芸術の方面からはじめ、小説なども書き、しかも「紅葉館」の経理の仕事も手伝っていたというからには、マルチで、エネルギッシュですね。
 そして恋も女の彩りならば、彼女に猛烈に言い寄ってきたひとまわり年下の男。
 これが三上於菟吉。彼は、作家で翻訳家(「雪之丞情変化」の作者・・これは翻訳小説です)。しかし、やがて人気作家になり、もてはやされはじめると、まあ・・遊び始めるんですけどね。
 しかし、彼女は、女性のための雑誌「女人芸術」を発刊し、これに連載していたのが、名高い「近代美人伝」です。
 長谷川時雨・・といえば、もうこの著作のみで評価されそうですが、多彩で色々な活動を幅広く行い、第二次大戦中には、ついに、愛国的な活動に入り、後代には批判もあるようですが、その時々で、なんとか女性の力を、活動を、社会的に・・と必死になっていたのではないでしょうか。
2011-04-15

紅葉館の女性

紅葉館

 東京スカイツリーが、ついに世界最高になって、いまや東京の最も有名なスポットとなりました。
 そのスカイツリーの兄貴格にあたる東京タワーは、長い間、東京のシンボルとされました。
 その東京タワーのある芝という場所は、紅葉の名所で、明治14年に建てられた、日本で最初の社交場「紅葉館」という料亭があったところです。
 教科書にも載っている「鹿鳴館」は明治16年にお目見えしているので、紅葉館の方が「姉さん」です。
 洋風の派手な「妹」は、その有名度に反して、もてはやされた時期はわずか7年ですが、純和風のしっとりとした「姉」のほうは、明治大正昭和と三代に渡って、高級社交場としての地位を保っていました。
 外国人からはメープル・クラブと呼ばれて、海外貴顕の紳士・淑女にも評判だったとか。
 日本最高の料亭を目指したたため、お客は政府高官や、名士ぞろいなので、給仕・接待をする女性たちは、よりすぐりの美女を集め、住み込みで、きびしく教育をしたそうです。
 宴会の席で歌舞なども披露したので、毎日、礼儀作法ならびに、歌や踊りの稽古をしていたのですが、料亭なので、遊女のような接待はしません。
 礼儀作法、立ち居振る舞いなどが洗練された、若い美女が大勢いるのですから、男にとっては、憧れの対象で、多くの恋愛もあったようです。

 有名なところは、尾崎紅葉(東京芝の生まれだった彼のペンネームも、この地の名物、紅葉からとっています)の「金色夜叉」のお宮さんのモデルといわれる大橋須磨子
 須磨子さん(熱海ではなくて須磨なのね・・)も、ここの給仕で、文人の巌谷小波がぞっこん惚れこんだ。
 言い寄る小波に、須磨子さんも、まんざらじゃない感じ。
 ところが、金持ちの大橋新太郎が現れると、須磨子さんはそっちになびいてしまった。
 これを聞いて怒ったのは、小波の友人尾崎紅葉で、紅葉館の廊下で、須磨子さんを蹴飛ばした
 蹴ったのは小波本人という説もあります。これをヒントに「金色夜叉」を書いたといわれてますが、そうなら蹴ったのは小波でしょうね。自分が蹴っといて小説にするかなあ?
 須磨子さんが、大橋新太郎と結婚して紅葉館を寿退社した時は17歳だったそうです。

 それから、元祖美人アイドルともいうべきお絹
 子供の頃に親を亡くした彼女は、京は先斗町の舞の師匠に踊りを仕込まれ、舞妓になろうとしたところ、紅葉館の幹事が見つけて、上京します。
 格別美人だったので、大臣や画家などからひいきにされ、大阪博覧会に彼女の絵姿が出品されたとか。
 彼女に惚れて紅葉館に通い詰めた文人の知り合いに、川上音二郎がおり、お絹の華やかな美しさを認めて、女優になれと口説き落とし、明治座で、川上貞奴と二人で踊ったそうですが、「紅葉館のお絹」が目当ての客で連日大入り満員。しかし、過酷な人気女優生活で身体をこわし、大阪公演の折、舞台で倒れてしまいます。
 天下茶屋で2年もの病臥の後、ひっそりと死んだそうです。

 そのほか、お鹿という女性が振った、ジョージ・モルガンは、傷心を抱いて京都に行き、そこでお雪という芸妓を妻に迎えたそうです。

 紅葉館では、「紅葉踊り」というのがあり、紅葉の柄の着物を着て、手に紅葉の枝を持って踊りました。
 その紅葉踊りの女性を描いてみましたが、写真も残っているのですが、残念ながら色がわからないので、適当な色づけです。
2011-03-04

尾崎紅葉

尾崎紅葉

  尾崎紅葉といえば「金色夜叉」しか浮かびません。
 名場面?は、熱海の海岸で、お宮を足蹴にする間貫一です。
 作者とくれば、えらそうな、髭をはやした文豪然とした写真がすぐイメージされます。
 しかし、彼は18歳くらいから文筆活動をはじめているので、いわば、学生作家のはしりでしょうね。
 以後、東大在学中にすでに流行作家として有名になっていました(結局、大学は中退していますが)。
 「金色夜叉」のタイトルは、おどろおどろげですが、端的に言えば、金の亡者、拝金主義、人生全て金次第となった男の物語ってことでしょうね。
 この代表作を書き始めたのは29歳くらいで、35歳で死んでいるので、物語事態は未完になっています。
 本人としては、この二人の運命をどのような決着にしようとしていたのか定かではありませんが、北海道で開拓をしている貫一のところに夫の横暴から逃れた宮が追いかけてくるとか、ドラマチックな続編なども書かれたりして、人気はあったのでしょうね。
 金色夜叉執筆開始の、20代頃のイメージで。
2011-02-27

モース

モース

 エドワード・シルベスター・モースは、言うまでもなく「大森貝塚」のモースです。
 時々、思い出したようにハマるのが荒俣宏の本ですが、「開化異国助っ人奮戦記」(小学館)の宣伝コピーに「バースもモースもみな同じ♪」というのがありました(あ! ランディ・バース・・ご存知ですよね?)。
 要するに、明治時代に日本に来た外国人は、皆、プロ野球の助っ人ガイジンと同じで、大リーグで落ち目になりかけた一発屋を一時的に呼んでくるのだ・・というようなことを書いていたような気がします。
 それが全てあたっているかどうかはともかく、色々な「お雇い外国人」によって、日本人は文明開化を助けてもらったのは確かです。
 で、エドワード・S・モースですが、彼が行った大森貝塚の発掘は、日本最初の考古学的発掘調査であったことは間違いないのですが、彼は考古学が専門だったわけではありません。
 そもそも、彼が日本に来たのも、歴史や考古学、あるいは民俗学などをやるつもりは毛頭ありませんでした。
 というのも、自然科学系だった彼は、動物学者で、シャミセンガイ(三味線街ではありませんよ・・念のため)という腕足類を探していたのですね。アメリカでは、生息数が少ないけれども、日本にいるということでやってきた。
 ところが、横浜の港について、東京へ列車で向かう途中、たまたま線路脇に露出していた貝塚を目撃してしまった。
 なにしろ、ものすごく好奇心旺盛、目新しいもの大好き人間で、目にする日本の景色や風俗、何でも興味深々だったところですから、遺跡までも見つけてしまったんです。
 で、東大に新設の生物学科の教授になり、勿論「腕足類」の採集や研究もやりましたが、それ以外に、たまたま目にした貝塚の発掘もしたし(縄文という名前は彼がつけた)、陶磁器にも興味を持った。それ以外に、手当たり次第というか、何でもかんでも集めまくったし、買いまくった。
 それは、外国の好事家が好む高価な美術品ではなくて、日常什器や生活雑貨、子供の玩具や、お守りやお札、店の看板から、記念団扇みたいなものから、イナゴの佃煮や金平糖まで、とにかくありとあらゆる雑貨類。根っからの雑貨好きなのでしょうね。
 彼がアメリカに帰国後、館長を努めたピーボディ科学博物館に、今も膨大な「モース・コレクション」というのが残っているのですが、これがまた、ものすごく幅広い。生物学者であったから、旅先で買い込んだいかなる珍奇なものでも、分類し系統立ててまとめるという習慣が発揮されたのですね。
 そして、考古学や科学博物館の構想(現在の国立科学博物館のもと)も日本に植え付け、また彼が連れてきたフェノロサや、ビゲローなどが日本の明治の美術界に与えた影響も重大ですが、進化論を日本に紹介したのも彼です。
 絵もうまくて、専門の生物の絵(くらげの絵など、かわいくて面白い♪)のみならず、日本の風俗や器物、建物などさまざまなスケッチを残しています。とにかく、なんでも面白かったんでしょうね。
 モース・コレクションに入っている「でんでん太鼓」と、「おかめの熊手」を持ったスタイルで描いてみました。
 きっとお気に入りだったと思いますよ。
2010-03-20

幕末のモデル

モデルさん

 幕末明治の女性をもう一人、いってみます。
 遣欧使節に随行したというほどの売れっ子?ではないのですが、写真館で撮影された女性で、おそらく当時の人気芸者さんではないでしょうか。新たに日本イ伝わった写真技術は、下岡蓮杖や上野彦馬が有名ですが、京都も近代化が早かった都市で、京都では堀与兵衛の写真館がありました。慶応元年ころ活動していて、凡そ、当時の写真は硬い表情のものが多いなか、満面の笑みを浮かべた珍しい中岡新太郎の写真が残っています。
 この女性も、堀与兵衛の写真館で撮影されたとされるものです(有名な西洋式の軍服を着た徳川慶喜の写真も、この写真館ではなかったか・・という説もあるそうです)。堀写真館は、プロの女性モデルを抱えていて、写真を撮りに来た武士達がモデルと一緒に撮影してもらうこともできたみたいです。笑う中岡さんも、もしかしたら綺麗なモデルさんを見て笑っているのじゃないかということを書いておられる方もいました。
 勿論、当時の写真ですから色はわかりませんが、かなり粋な女性ではないかと思われますので、浮世絵の芸妓の衣裳などで色をつけてみました。なお、堀与兵衛写真館には有名な市松文様の敷物があって、いろんな写真が皆この敷物の上で撮られているのですが、あえて、目をむいたような市松文様を無視しました。背景も、春なので桜にしてみました。 
2009-03-29

幕末遣欧使節の女性

遣欧女性

 侍がピラミッドの前で並んで映っている日本最古の観光写真をご存知ですよね。
 池田筑後守が団長だった第2回遣欧使節です。
 フランスに派遣され、ナポレオン3世時代のパリに入っていますが、行きがけにスエズから、エジプトに入り、ピラミッドやスフィンクスを見ています。
 日本人がはじめて訪れるヨーロッパが珍しかったように、はじめて日本人を見る外国人もとても珍しかったでしょうね。
 池田筑後守やその随員は、あちらで感化されたのか着物の下にワイシャツを着てネクタイをしめた写真もありますが、日本の着物を着た女性はヨーロッパ人にはとても珍しかったでしょうね。
 1864年に撮影された日本女性の写真がありますが、現代の感覚では、いささかしどけない着こなしに見える幕末頃の着物ですが、裾を引きずって長い袖のついた東洋のドレスは、とても面白勝ったのでしょう、写真の女性も、まるでクリノリンのドレスを着ているように堂々としています。
 勿論、写真には色はついていませんが、裾模様の優雅な和服なので、地味な色合いにしてみました。背景はゴージャスなブルボンの王宮の扉写真で・・・。
2009-03-27

高安やす子

高安やす子

 洋館の資料を探していて、本棚から「阪神間モダニズム」(淡交社)というムックを引っ張り出してきて、パラパラめくっておりまして、高安やす子さんにひっかかりました。
 この方は、長谷川時雨の「明治美人伝」にも名前が出ていて、詩人であり、歌人であり、また絵も描いたという才媛です。
 与謝野晶子とも親しく、女流歌人で美女としても名高い九条武子とも並び称されたようです。金襴女学校の設立にも尽力したそうで、大阪では有名な文化人でありました。医者の娘に生まれ医者に嫁いだというインテリの家柄で、息子の一人が文学者で、イプセンの紹介者です。
 写真は色々あって、イーゼルに向かって絵を描いているというのにもそそられましたが、やはり与謝野晶子と並んで映っているのが一番顔立ちに「意思」があるようなので、それから描いてみました。着物の色などはわかりませんので、想像です。
2009-01-29

洋館の主人

主人夫妻

 大阪と神戸にはさまれた六甲山麓の阪神間といえば、大正昭和の初めにかけては、裕福な大阪商人の別荘地や邸宅として発展を遂げました。いまなお、レトロな名建築が残る地域です。 
 先日、旧乾邸が売却のため、最終内覧会がひらかれ、ミーハー根性で行ってまいりました。
 かの大御所辰野金吾の東京帝国大学工科建築学科卒業の建築家渡辺節の設計で、ビルなどの商業建築を手がけた彼の珍しい個人邸宅です。
 昭和11年の竣工で、海運実業家の乾新兵衛氏のために建てた物です。
 オリジナルのタペストリーが玄関大階段の上にかかっていましたが、海上交通の安全を願う安芸の宮島と華やかな船などを織り出した独特の和風図柄でした。
 独特のタイル貼りの玄関や、マントルピースや大シャンデリアの残る大広間など、なかなかに華麗な邸宅で、この建物が保存されることを願います。
 で・・まあこのような絵を描いてみた次第。昭和初期の洋館の主夫妻のイメージです。
2009-01-28

奥田行高

奥だ

 フランスのヴァンデ戦争の指導者達の絵を見ていて、実際は残虐で悲惨な事件の登場人物でも、美化して記念にしようという意識がはたらくものなのか・・などと思っていましたら、中でダントツで有名なアンリ・ド・ラ・ロシュジャクランの絵姿も、そのほかの人物も、あちこちに包帯を巻いていたり、血が流れていたりして、負傷してもなお戦いの先頭に立つという「勇姿」で描かれているというのに気付きました。
 日本で、幕末明治の頃に、月岡芳年などが描いた武者絵には、傷つきながらも、なお闘うというような姿がおいおいあらわれてきます。題材は「忠臣蔵」のメンバーであったり、有名な歴史人物だったりするのですが、そのような「時代物」では実はなく、もっと近く生々しい出来事を描いていたと思われます。
 上野戦争の直後に、戦いの現地に出向き、戦死した幕臣たちの姿を写生していた・・といわれる芳年ですから、激動する時代に生きた彼なりの、絵師としての使命感(報道の要求?)と、一見、相反するかもしれませんが、死者達への鎮魂のような意味合いもあったのではないでしょうか。
 その成果といわれる「魁題百撰相」の出版の前に、四十七士を描いた「誠忠義心伝」というのを明治元年に出していますが、それも、もしかしたら、誰か上野で死んだ幕臣を描いていたのかもしれません。その中の「奥田行高」をアレンジしてみました。
2008-11-02

沖田総司

沖田総司

 今更ながらの有名人にして人気者。「いにしえ・夢語り」の千華さまが総司ものの短編小説を書いておられますので、そうか・・春は、おきた君(おはよう朝日のうさぎの着ぐるみではありません)の季節なのか・・と私も描いてみました。
 しかし、以前にも触れたとおり、私の実家は土佐藩の出身で、勤皇贔屓でしたから、沖田君が英雄視されるはずもなく、子供の頃(まだ「竜馬が行く」も、「燃えよ剣」も連載していなかった)聞かされた話では、「沖田総司なんかは、人殺しばっかりしとったから、道端で血吐いて死んだ」ということになっていました。これって、「巨人の星」のドブの中で前のめりになって死んだ坂本竜馬くらい、アバウトな伝承ですね。
 ところで、沖田総司の「顔」については、伝沖田総司の写真なるものがあり、それが果たしてホンモノか、肖像画は似ているのか、はたまた母方の伯父さんの写真、似ているといわれる親戚の人の写真とか・・色々憶測を呼んでいます。が、映画やテレビなどではサワヤカな二枚目系が多いことから、「男前」にしたい気持ちはわかりますが、伝聞では「背が高くて肩がいかつい、色が青黒い、目が細い、ひらめ!みたいな顔」だそうです。
 どちらにしてもイメージしにくい顔ですねえ・・・。う~ん・・ヒラメか・・・。
2008-03-29

小林永濯

小林永濯

 小林永濯(こばやしえいたく)は、江戸と明治の狭間に生きた画家です。
 天保14年(1843年)に、日本橋の魚問屋生まれで、絵の才能があったために、13歳の時に狩野永悳(かのうえいとく)に入門しました。彼の才能を認めた井伊直弼によって、伊井家の絵師として召抱えられましたが、桜田門外の変がおこり、伊井家が騒然となったことから、絵師どころではなくなったのか、自ら辞めたのか、伊井家を辞しています。
 おりしも幕末の混乱と、西洋文物の流入で、古来の画法だけではなく、西洋の絵画や写真などがどっと入ってきて、彼は西洋流の絵画というものにも興味を示しますが、技法重視というより、絵画の描き方そのものに西洋風な影響があるように思われます。
 明治18年まで担当していた「ちりめん本」の挿絵などには、ドラマチックな構図が多く、現代にも受け継がれている「御伽噺」の基本イメージを決定付けた画家であると思われます。
 去年日本に里帰りして展示(揺らぐ近代ー日本画と洋画のはざまに)されたボストン美術館所蔵の「道真天拝山祈祷の図」が今のところ、一番有名な絵でしょうか。肉筆画のみならず、彼の真骨頂は「ちりめん本」や神話画等、「物語絵」に発揮されていると思います。
 明治23年(1890年)になくなっていますが、肖像として、追善絵のような絵は、猫背でやせて髭ぼうぼうなのは、病がちであった彼の晩年の風貌を映したものでしょうか? 少々目つきを鋭くしてみました(・・・下柳投手ではありません・)。
 さらに詳しくは、私の無駄話日記にぼつぼつ語っています。
  
2008-02-02

徳川慶喜

徳川慶喜

 江戸幕府最後の将軍であり、大政奉還、江戸城無血開城など、徳川氏の中ではとてもメジャーな人物ではないでしょうか。
 鳥羽伏見の戦いでの敵前逃亡、あっさりと隠居するような態度は、あくまで戦う姿勢の旧幕臣にとっては、足元をすくわれるような将軍であったかもしれませんが、時代の趨勢には敏感だったのかもしれません。
 ナポレオン3世と交流があった・・というより、外交目的のためにフランスが幕府に近づいたのでしょうが、製鉄所や軍制改革など(この時やってきたのがブリュネ大尉で、幕府崩壊後、本国への帰国命令を無視して五稜郭にまで行った人物)、幕府は徳川慶喜のもとでフランス式を取り入れています。
 パリ万国博覧会に参加するために、弟の徳川昭武をフランスに派遣するというのも熱意の表れでしょう。
 引退後は、写真や自転車、釣に絵画、謡曲、和歌、弓術、馬術、囲碁、陶器、刺繍!など、カルチャーセンターのはしごをするような生活を送ったとか。
 ナポレオン3世から贈られた軍服を身につけた写真がありますが、その写真から、当時のヨーロッパ王族の肖像画などから色彩を復元して描いてみました。
2008-01-19

頼山陽

頼山陽

 日本人には何故か「ナポレオン好き」が多いのですが、これのモトには、なんとこの病弱、歴史オタクでややとっぴな天才文人頼山陽が火をつけたのですね。
 彼は、広島藩の学者の家の将来を嘱望された優秀な子どもだったのに、学問をするために行った江戸の水になじまず、逃げるように帰ってきたり、京都に出奔したりして(脱藩は家の存亡にかかわります)一時は座敷牢に閉じ込められるようなこともあったのですが、天才的な文才のためにまあ許されて、結局跡目は弟に注がせて学者になったんですね。
 その彼が、長崎に遊学して、そこでナポレオンのモスクワ遠征に従軍していたというオランダ人医師とであって話を聞き、感動のあまり詩を詠んだのです。
  仏郎王歌(フランス王の歌)
 仏郎の王
 王は何処にか起こる 大西洋 
 太白 精を集めて 目に碧光あり 
 天 韜略を付して その腸を鋳る・・
(後は長いので略)
つまり、「太白金星の生まれ変わりで、目には碧の光が鋭く 天は武略を与えて その腸を鋳造した(鋼鉄の如き剛毅な肝ということです)」英雄は、世界を征服し、宿敵ロシアの都を陥落させる寸前、大雪に見舞われる不運にあい、「天はフランスを見放し」敗北した悲劇・・・ということになっています。
 この詩に影響を受けた者が、ナポレオン伝を翻訳し、また詩に歌われ、これらに影響を受けた佐久間象山吉田松陰などがナポレオンに心酔し、幕府もフランスファンになり(事実、徳川慶喜はナポレオン3世と親しく?なっています)、明治に入っても西郷隆盛もまたナポレオン好きであり、以後多くのファンを増やしました。
 この詩がそのモトを開いたのですが、それが詠まれた1818年は、本人のナポレオンはセントヘレナにいたのですが・・。
※江戸のナポレオン伝説―西洋英雄伝はどう読まれたか(岩下哲典・中公文庫)
2007-06-01

木戸松子

木戸松子

 幾松さんとして有名な、木戸孝允の奥さん
 芸者時代に、長州藩士の「桂小五郎」と出会って、明治維新の後、妻になりました。れっきとした恋愛結婚です。
 しかし、夫の木戸さんは明治になってから(勿論幕末にも大変忙しい人でしたが・・)、色々と忙しく、身に過ぎた過酷な業務を背負って東奔西走。岩倉使節団では副使で、欧米を回り、妻のことなど気にかける暇もなく、彼女もついていけない世界です。夫婦の住む世界はどんどん離れて、挙句に西郷さんの反逆問題で心労過労の木戸さんは、出張先の京都で死んでしまいました。その後、伊藤博文のような弟子?連中が、よってたかって彼女を尼にしてしまいます。
 思うに、果たして松子さんは幸せだったのでしょうか? 南条範夫の小説「幾松という女」などを読むと、とっても淋しげな横顔が浮かびます。
2007-03-21 

谷汲観音

谷汲観音

 世に生人形(いきにんぎょう)なるものがありますが、その系譜は、現在はマネキン人形や、博物館などに展示されるリアル人形、果てはお化け屋敷の生首などに受け継がれています。
 天才人形師松本喜三郎については、大阪歴史博物館などで展示会があったので、けっこう知られています。その代表作ともいえるのが谷汲観音(たにぐみかんのん)です。西国三十三所観音霊験記という出し物のために作られたそうです。
 妙になまめかしい姿は、人形とも仏像ともいえず、その中間・・ということで、人気を博したそうです。 
 私としては、この実物を展示されたときに見ましたが、なんだか人形めいて(あたりまえですが)見えましたが、角度によっては、男でもなく女でもない中性的な不思議な顔をしています。一度大修理され、衣装替えもされたようですが、当初は、薄絹でスケスケの天衣を着ていたとかいうことなので、ますます、色っぽかったのでしょうね。
2006-08-04

勝海舟

勝海舟

 超有名人です。長崎海軍伝習所では、ちょっとデカい顔をしていて、榎本武揚さんなどには、口は立つが、船の上ではちょっと嵐になると酔ってしまって、つかいもんにならん・・な~んて言われていたんですが、咸臨丸の艦長さんです。
 今更ながらの方ですが、私は高校1年の時、子母澤寛で、読みふけっていたので、なかなかヒーローのイメージだったんだけど、なにやら、結構口で勝負した人っていうのはアタリかも。でも、この口先三寸、三寸腐乱の舌先で働く人物も必要で、かく言う榎本さん自身も結構弁の立つ人です。なにしろ、5ヶ国語くらいは読んでわかったらしいから。
※ 「勝海舟」子母澤寛(第1巻)新潮文庫
 「氷川清話」勝海舟・講談社文庫
2006-04-17

上野彦馬

ひこま

 長崎の蘭学者の家に生まれ、医者のポンペ(ポンペ・ファン・メーテルフォート)のもとで化学を勉強して、写真技術を会得し、横浜での下岡蓮杖の開業と同じ文久二年(1862年)、長崎で写真館をはじめた人物であります。
 長崎という場所もさることながら、海軍伝習所の関係もあって、彼の写真館では、坂本竜馬、高杉晋作、桂小五郎、伊藤博文などおなじみの幕末の有名人が撮影されました。そればかりではなく、ピエール・ロティや清の丁汝昌、ロシアのニコライ2世などもカメラにおさまりました。
 この日本初の上野彦馬の写真館で修行した守田来三という人が、大阪で始めての写真館を開業したそうですが、その開業より前に薬屋などによって撮影が試みられていたとか・・そのようなエピソードや、失われた豊富な大阪の写真資料は「なつかしき大坂ー写真でたどる大阪の歴史・魅力再発見」(佐々木豊明・文芸社)で見ることができます。
 で、現代も素晴らしい大阪の写真は、今彦馬のhikomaさまのブログで贅沢に堪能させてもらっています。
2006-01-22

岩倉使節団

岩倉使節団

外国の交際は国の安危に関し、
 使節の能否は、国の栄辱に係わる。
 こういった、ご大層な三条実美さんの「おくる言葉」を受けて、岩倉具視を団長に、木戸孝允、大久保利通をはじめ、総勢100人を超える大使節団が、地球一周の大旅行に出発したのは明治4年。いまだ新政府の足並みも危うい、ごく初期の時期。
 一行は、♪横浜の港から、船にのって~♪
米国はサンフランシスコに着き、大陸を鉄道で横断。ボストンからロンドン入り、パリ、ベルリンを経てペテルスブルグ。引き返してコペンハーゲン、ストックホルム。ドイツに戻ってローマまで行き、スイス、オーストリアを経てまたフランスのマルセイユから船に乗って帰ってきた・・というものすごい行程。
 行く先々で近代化しつつ、意欲的に知識技術を吸収しまくった。久米邦武、実見するところの、米欧回覧実記(岩波文庫)・・ハマると面白いです。
2005-09-12

榎本武揚

榎本武揚

 ♪は~るばる来たぜ 箱館ぇ~♪ 逆巻く波を乗り越えて~♪
 函館名物?五稜郭の主人公は、総帥の榎本武揚さんです! しかし、ここを榎本さんが目的で訪れる人は少ないでしょう(昔、五稜郭タワーの入り口にあった海軍士官姿の榎本人形はどうなったのでしょうか?)。みんなお目当ては土方さんなのだ。そりゃあ、土方さんはカッコいいでしょう。生きていた時から「男前」といわれ、おまけに悲劇的な最後で、当時から伝説の人と化している。
 ♪だけど、だけど・・これだけは言える~♪(古い?)榎本さんって、とっても波乱万丈。函館の負け戦で人生が終わったんではなく、ここから武揚君の大冒険がはじまった。私は加茂儀一「榎本武揚」(中公文庫)で、ハマって、安部公房「榎本武揚」(中公文庫)で、大笑いなのだ。
 ペテルスブルグで撮ったという写真の、サイズのすごく大きい毛皮のコートを着た榎本さん・・なんだかかわいらしい。
2005-09-01

和宮

和宮
 
 公武合体の表明のために、もっとも古風でイージーな手段として徳川将軍と天皇家との結婚のために選ばれたお姫様。いわば、幕末の王昭君です。
 前代未聞の豪華な花嫁行列の陰に、すでに婚約者のあった姫が、泣く泣く東下りをしたというので、身代わり説だの、足が不自由だったとか、手がなかったとか・・まあ、色んな憶測から生まれた「伝説」の華やかな方です。
 2002年に発見されたという写真には、確かに小柄(遺骨の調査で143センチ)ですが、きちんと前を見て椅子にかけた堂々たる貴婦人で、勿論両手が袖から見えます。
 これを見ても、悲劇に溺れて泣き崩れるばかりの姫ではないような気がします。そもそもこの縁談を嫌がったというのが、13歳にして自らの意思を表明でき、また、一旦決まれば徳川と皇室の橋渡しとして努力したというのも、意思強固な女性であった証拠でしょう。
 有吉佐和子「和宮様御留」のように、確かに多くの女が陰謀を繰り返したかもしれませんが、身代わりの2人の女性は、和宮の心の成長の象徴として見れば面白いかもしれません。
2005-08-20

ルイ・ルソーの人物写真

るいるそー
 1864年に、パリの自然史博物館のルイ・ルソーという人が、幕府の遣欧使節団の写真を30枚ほど撮っています。
 ウキヨエでしか見たことのなかった日本のキモノやチョンマゲ! 動いてしゃべる不思議の国のサムライ! おまけにカンザシなどを挿した17歳のゲイシャガールまで随行! ルイ・ルソーさん、わくわくしてポーズ指導などしたでしょうか?
 被写体となった使節たちは、皆、緊張した面持ちながら、刀を手にすっくと立ち、あるいは椅子に堂々と腰掛け、また身体を斜に構え、なかなかのモデルぶり。
 その中で、19歳の矢野次郎兵衛(向かって左)と27歳の山内六三郎(右)の2人だけは、紋付袴の下に、カッターシャツとネクタイ! 月代ものばして櫛をあて、帽子まで持っています。
 これを、国内で既に断髪洋装をしていた明治5年の岩倉使節団と比べると、面白いのだけれど、この文久3年の当時、なかなか気合の入ったいでたちではありませんか。
 しかし、この使節そのものは外交に失敗して帰国しました。当時、朝廷のきもいりの尊皇攘夷や薩英戦争で荒れる国内情勢に押される形で、横浜の鎖港(!)交渉に行かされた使節団こそ気の毒だったかも・・・。本人たちも「もはや、そんな時代やないっちゅうに・・」と思っていたでしょうか・・。 
2005-07-23

土方歳三

ひじかた
 とてもメジャーで、アイドル化しているこの方ですが、これもきっかけは、司馬遼ですよね。
 かつて若者に多大な影響を与えた2大作品「竜馬がゆく」と「燃えよ剣」
 当時、学生運動の闘士は土方びいきで、機動隊の若者には竜馬が好きが多い、なんて言ってた人があるが、なんとなく体制・反体制が逆なところあげてウケをねらったのかも。どちらも相当人気だったと思う。
 昨今のブームはともかく、私は15年くらい前に五稜郭のお土産屋で買った土方さんのキーホルダーを今でも持ち歩いています・・・なんでやろ? 
 有名な写真の服装は、上着とベストの材質が微妙に違うんではないかと思っていたので色を変えてみました。

高杉晋作

たつに
 この人も古いなじみですね。逃亡する時に髷を切ってみたり、芸者姿になったり!変装達者ねえ。橋の下でコモを被ってたのは、屋根を飛んで逃げた桂さんでしょ。まだ、尊王攘夷の時代に脱藩して断髪し、洋装してイギリスにまで行った井上馨とか、長州藩の人ってコスプレ好きなの?
 でもおばさんたちは、山口といえば(親戚もあるけど)フグでしょう! てっさもいいけど、唐揚おいしいよ。なんのこっちゃ・・。
(ちなみに、フグ解禁にしたのは伊藤博文だそうで、てっちりは、明治以降のものなんですけどね・・・)

坂本竜馬

さかもと
 まだ座乱読上には登場してませんが、Fの古馴染み。子供の頃、高知出身の実家に、何故か知らんが、古ぼけた写真があったような気がする(まだ「竜馬がゆく」は新聞連載していなかった頃だ。スゴイ昔!)。土佐から来た祖父母のアイドルだったのかも・・。しかも「りゅうま」と呼んでいた。あの写真どうしただろう? もしかして新発見の写真だったら、お値打ちかも・・なんて。しかし、実家は10年前の震災で全壊して、もう解体されちゃったし「幻の竜馬」でいい。実は、竜馬じゃなくて、ウチのひひじいさんだった!ってこともありうる。
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Author:乱読F
歴史上の人物を沢山描きたい・・。
実在・架空2000人描き

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