文襄六王

文襄六王

文襄六王(ぶんじょうろくおう)と呼ばれる、六兄弟は、北斉王朝の時代、高貴な生まれにもかかわらず、それぞれが悲劇的な運命をたどりました。
 高孝瑜、高孝珩、高孝琬、高長恭、高延宗、高紹信の6人。
 高澄(私たちの認定チェーザレの一人、高子恵さま! 死後文襄皇帝とおくり名された)の息子たちです。
 北斉の実質上の創始者である高歓は、自身の後継者として自他ともに認めていたのが長男の高澄ですが、即位寸前(つまり、早い話が魏の孝静帝から帝位を奪う予定だったのです)、28歳で暗殺されます。
帝位簒奪は、弟の高洋がひきついで、王朝を創始(文宣帝)します。
 北斉王朝は、初代の文宣帝は、軍才はあったものの(敵方の宇文泰が誉めるほど)性格は残虐で、淫乱、暴虐、アル中の君主として名を残しただけだし、その弟の2代目高演(孝昭帝)は、まともな皇帝でしたが、在位1年で落馬事故で死亡。
三代目の高湛(武成帝)は、兄帝の臨終の床で皇位を譲られ、保護することを頼まれていたにもかかわらず、兄の皇子を殴殺します。
それを手始めに、カリギュラ街道まっしぐら。この皇帝の時に6兄弟は宮廷に仕えたのです。

 長男の高孝瑜は、この武成帝と同い年で、子供の時は仲が良かったのですが、帝が即位してからは佞臣の讒言によって憎まれはじめます。女性問題で帝の逆鱗に触れ、宴席で腹が膨れ上がるほど酒を飲まされ、毒を盛られて、池に身を投げて死にます。

 高孝珩は、教養の高い文化人で、特に絵が得意で、彼の絵を人が本物と見間違えたというような「画聖伝説」まで持っています。
北斉滅亡の折に、最後まで抵抗をしましたが敗戦。負傷して捕虜となり、北周では、一応は賓客扱いを受けていましたが、ある宴会の席で、北周の武帝に琵琶の伴奏に笛を吹けと強要され、嗚咽して吹けなかったとか。
その笛吹き事件?ののち、すぐに死んだのは、傷が悪化したからでしょうか??

 三男の高孝琬は、母が魏の孝静帝の姉にあたる馮翊公主なので、兄弟の中では最も高貴な血筋でプライドが高く、武成帝などなんとも思っていなかった。敵襲にびびって、都を捨てて逃げようとした帝の腰砕けぶりにも腹が立つし、政治のでたらめさにも腹が立つ。
陣中で藁人形を射て憂さ晴らしをしたくなるのももっともかも。
それを祖珽という佞臣が「帝位を狙っている」と讒言します。
また帝が、孝琬が持っているお宝を欲しがって、彼の邸宅を家探しさせると(帝がこんなことするんですね!)、大量の武器が見つかったとの注進。
それに「帝の死を願っている」などと密告する側妾もいた。そして謀反の罪で捕えられ、鞭打ちの拷問にも「自分は、神武皇帝の嫡孫。文襄皇帝の嫡子。孝静皇帝の甥だ」と言ったので、帝は怒りのあまり、両膝を折って殺してしまったとか。

 そして四男が高長恭。蘭陵王です。この人は有名なので割愛。「仮面の男」です。

 五男は高延宗。安徳王と呼ばれる人です。
この人は、ひょっとしたら武人として名高い蘭陵王より、軍才があったかもしれない。
北斉の皇帝としては唯一軍才があった高洋に可愛がられ、軍人として教育されていたかも。
兄の蘭陵王の勝ち戦についても「ツメが甘い!」と批判していたらしい。
 いよいよ北斉が滅亡の間際、北周に攻めたてられて危なくなった皇帝の高緯は、すべての責任を高延宗に押し付けて逃亡してしまいます。
残った部下たちは、彼を皇帝に推戴して、最終決戦に臨みました。
皇統譜には載せられていませんが、北斉滅亡時の実質上の最後の皇帝は、この高延宗であったのです。
結局、周の捕虜となり、当初は賓客扱いを受けていましたが、自殺未遂を繰り返します。
北周は、高家の一族が謀反を企てたということで処刑決定しますが、高延宗は、それを聞いて「殺されるのは御免だ」と、自死しました。

 高紹信は、6男で、彼らの最年少の兄弟ですが、特に逸話は見つけられませんでした。
領地で、その地の女性を妻にしたということくらいですが、この人も、北周に連れて行かれて、刑死しています。

 不幸な生涯ですが、彼ら兄弟は、皆が母親が違いますが、仲が良かったと伝えられていますので、いまだ少年の彼らは楽しそうだったかも・・というイメージです。
2014-05-11
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独孤三姉妹

独孤三姉妹

南北朝の末期の西魏、北周の軍人独孤信の娘たち。
 彼女たちは、後に北周の明帝の敬皇后、唐の元帝の元貞皇后、隋の文帝の文献皇后と呼ばれます。
 古代においては「皇后(きさき)の位」は女の最高の出世とも言われますが、彼女たちがそれぞれ嫁いだときは、その夫たちが歴史上のどの位置を占めるかなんてわかりません。
 はからずも歴史の奔流の中で、よくも悪くも、それぞれが三代の王朝にかかかわるということになりました。
 ましてや、父親の独孤信は、生きている間は、娘たちがどのような形にしろ、皇后と呼ばれる身分になるとは全く知らなかった。
 独孤信は、古代中国十三美男の一人で、その美貌と騎射の腕前で名を挙げた人物。
 若い頃は、戦場にあっても独特の派手な身なりで目立っていたとか。
 さしずめナポレオンの元帥ミュラのような感じの軍人だったのでしょうね。
 しかし、北周の孝閔帝が権臣宇文護を排斥しようと企てた陰謀に加担したとされ、自殺に追い込まれます。
 計画が露見した孝閔帝も宇文護に毒殺されました。

 敬皇后
 独裁を目指す宇文護が、次に傀儡として担ぎ出したのが宇文毓(いく)。
 これが長女の夫です。第2代目の皇帝として即位しました(明帝)。
 彼女は皇后に立てられましたが、父親の死が関係していたのか、すぐに亡くなっています。
 しかしその後、明帝も、宇文護に毒殺されます(この権臣は12年後に、明帝の弟の武帝に殺されるまで専横をふるいました)。
 
 元貞皇后
 四女の夫の李昞は、北周の唐国公の爵位のままで終わるのですが、息子の李淵が、後に隋を滅ぼして唐を立て、初代皇帝になるので、亡父に帝号を贈り、母を皇太后とします。彼女の孫が李世民です。
 
 文献皇后
 そして一番有名なのが、七女。
 名前も伝わっています。独孤伽羅
 彼女の夫は楊堅です。
 言うまでもなく、北周の武帝に仕えて北斉の攻略などに力を発揮した軍人ですね。
 独孤伽羅は、とてもしっかりしていて、夫の仕事にも意見を述べ、それが適確だったので、夫も信頼した。
 しかも、彼女、絶対夫の浮気を認めなかったんです。この時代にして大したものですねえ。
 楊堅は、結婚の時に、一生涯妻だけと誓わされたそうです。それほど彼女は魅力的だったのかも。
 美男で有名な父親の娘だから美人だったんでしょうねえ。
 二人の間に生まれた娘の楊麗華は宣帝(武帝の息子)の皇后になります。
 ところが、この帝はとんでもない愚帝で、淫乱と暴虐、奢侈と散財で、まあ典型的な亡国の君主。
 政治に関心などあろうはずもなく、結局、楊堅が実権を握ったまま、帝は、あまりの乱れた生活のゆえにか22歳で死んでしまう。 後に、楊堅は北周の王族たちを冷酷に粛清しているので、この帝もひそかに手を下したかもしれない。
  もしかしたら、DVに悩む(宣帝は暴力夫だったし、女性関係も無茶苦茶だった)娘の皇后と、母の独孤伽羅がしくんだことかもしれないですよね。ティベリウス家のようだわ。

 北周の曹操たる楊堅が王朝を乗っ取るのは時間の問題。
 そしてついに隋の初代皇帝として即位します。働き盛りの40歳。
 当然皇后は独孤伽羅。かねてより懸案だった南朝陳を滅ぼして、遂に、天下統一をはたします。
 常に夫の傍らにあって政治を助けたので二聖と呼ばれたというからには、彼女自身も立派な天下人だったわけですよねえ。ただのファーストレディではなかった。
 しかし、皆さまご存じのように、隋は、文帝夫妻の二男楊広(のちの煬帝)が、兄を陥れ、父母を謀って皇太子になりました。
 特に、母の前でしおらしさを演じたためにすっかり本質を見誤ったのは、天下の女傑独孤伽羅にして「男を見る目」がなかった。
 だって、彼女が死んでから、夫も、息子も、たがが外れたように、女色に走ってしまったんだもの。やれやれ。

 ところで、古代中国十三美男というのは、潘安・宋玉・子都・宋文公・鄒忌・周瑜・呂布・嵆康・衛介・韓子高・蘭陵王・慕容沖・独孤信だそうです。
 
2014-04-29

北周の武帝

北周の武帝

 ものすごく久しぶりの「中華」です。
 そういえば長いこと「和風」ばかりですねえ。ここんところ、「和」関連のものばかりに興味をひかれていましたので。
 で、今回この北周の武帝。名前は難しくて、宇文邕(うぶんよう)。
 この姓の人で、覚えているのは宇文泰(うぶんたい)くらいでしょうかねえ。北周の太祖で、宇文邕の父親。
 北斉は興味がある人多いらしく、しばしば目にします(なんといっても顔が美しすぎたと伝説のある蘭陵王の国ですから)が、そのライバルであり、実質北斉を滅ぼした北周の王朝はあんまりメジャーじゃないかもしれません。
 かく言う私も北斉王朝は「嗜虐と美貌の王室」で、すべての皇帝がカリギュラみたいなので、けっこう取り上げていたかも・・・。
 その蘭陵王のメジャー度はなかなかですし、いまズバリ「蘭陵王」というドラマがBSで放映もされています。
 そのドラマの中に蘭陵王のライバルとして登場する宇文邕が、印象的で、あらためて北周武帝という人物に興味がわいたわけです。
 系譜上で言えば太祖の子供にあたりますが、北周の皇帝としては三番目。
 二代の皇帝(二人の兄)が、次々と権臣宇文護(うぶんご)に殺されて、傀儡の帝位が回ってきました。
 で、朝政をほしいままにする宇文護のもとで、凡庸をよそおって雌伏12年。
 武帝はついに、母の皇太后の宮殿でこの権臣を殺します(うわ~! 中大兄みたいですね~)。
 親政を開始。弱体化していた北斉を滅ぼし、遂に華北を統一。さらに天下統一を目前に病死。
 まあ、中大兄から織田信長になったんですねえ。
 しかし、武帝は三武一宗といわれる、仏教を大弾圧した皇帝の一人で、まあ仏罰があたっったってことでしょうか。地獄に落ちて後悔しているという伝説もあります。
 後を継いだ息子の宣帝は、突如カリギュラ化!・・というより、皇太子時代から問題児で、しばしば父やその臣下に叱られていたので大粛清を開始。
 そしてあとは好き勝手放題で、皇后を5人も立てたってことで有名です。
 う~ん・・側室はたくさんいたとしてもお咎めなしですが、正妻を5人というのは問題視されたんでしょうね。
 お約束のように酒色にふけり、諸臣の反発を買う。こうなっては王朝は長くはありません。
 この皇后たちの一人の父親が楊堅。つまり隋の初代皇帝です。
 ドラマの武帝は皇帝ということで中華風の装束が多いですが、北方部族出身の王族ですし、隋の楊堅よりも年下なので、隋唐風に。
 数年前にMIHO美術館でシルクロード関連の展示をした時に、「北周武帝陵出土」という帯金具が出ていたので、それふうのベルトにしてみました。
2014-03-02

蘇軾

蘇軾

  桂棹 蘭櫂 空明を撃ちて、流光をさかのぼる
 
 桂の棹に、蘭の櫂が、空の明りをかきわけ、月の光を漕ぎのぼるという意味なので、天空と江水がまさに一致したような素晴らしい幻想的な月夜なんでしょう、かの「赤壁の賦」の一部です。
 ところで皆既月食、寒かったけれど、ちゃんと見えましたね。
 短時間で月が欠けて、また満ちる・・不思議な体験でした。
 「赤壁の賦」は、流謫の身にある蘇軾が、友人と船を浮かべて長江に遊び、満月を眺めて酒を飲み、気分がよくなって船端をたたいて、即興詩を歌ってごきげんだけれど、ともに飲む友人は、曹操の詩「月明らかにして星稀なり」を引用し、天下の英雄といえども今はもういない。しかし、あなたも私も、英雄ではない、ちっぽけな人間・・永遠の自然の中では空しい・・とブルーになるんですね。
 しかし、蘇軾は、ものは見方で、常に変化するというならすべてが変化するし、変化しないというなら、大自然すべては永遠に続きます。そして私もあなたもその自然の一部ですよ。
 と、なにやらけむに巻かれるような「斉物」理論で応え、英雄であろうが、庶民であろうが、この自然の美を満喫できる権利は等しくあるのです。満月はこんなにきれいでも、いくら見たってタダですよ!
 お客も気持ちがすっきりして、笑いだし、二人して大いに飲み明かし、杯盤狼籍、ともに船の中で酔いつぶれて寝てしまい、東の空が白くなっていくのも知らなかった・・。
 というのが、赤壁に賦を大急ぎで要約(しすぎやん!)しました。
 湖涼さまにリクエストをいただき、久々に蘇東坡詩集などをひっくり返してみると、やはりこの赤壁の賦がいいなあと思い、このようなのを描いてみました。しかし、この賦の出だしの、水の上から月の光を漕ぎ上る描写があまりに素晴らしいので、とてもとても「絵にもかけない」面白さなので、あえて、しょうもない絵柄になりました。お許しを・・。

 ところで、本日12月12日は、この人名事典の7周年記念日です。今日の記事で1825人目となりました。当初の目的1年継続、それから3年継続、千人斬り・・を過ぎて、早2000人が目前になってまいりました。ネタは尽きそうで尽きないので、なんとか2000人を目指します。今後ともどうぞ、よろしく。
2011-12-12

文天祥

文天祥

 今では、あまりメジャーではないかもしれませんが、戦前まで日本人の間でも、諸葛孔明と並んで、とても有名だった人物です。
 南宋が滅亡する時に、モンゴル帝国に最後まで抵抗し、捕らえられてもなお、獄中で執筆活動をして、滅亡王朝の遺臣たちの心のよりどころとなりました。懐柔しようとしたフビライの要請をあくまで拒んで、刑死したことで、ますます人気が出ました。
 日本では幕末に勤皇の志士たちの「アイドル」的存在となり、その志士が政府の中枢になった明治時代にも「人気作家」でした。
 特に、獄中の苦難の中で、清らかな忠義の心を保つという「正気の歌」は絶大な人気で、吉田松陰をはじめ、日本人自身も、別バージョンで作ったりしていました。
 今時、流行らない「忠義」に殉じた英雄ですが、心の芯に一本筋の通っている人間のいない昨今、彼の情熱の詩は、なかなか新鮮で感動的です。
 絵画にも多く描かれ、科挙を首席合格した超インテリの文人なので、官吏の正装をしている絵が多いのですが、獄中に座す・・というスタイルで描いてみました。
2008-09-17

桓野王

桓野王

 倉敷の個人所蔵の名画で「桓野王図」というのがあります。
 時代的には、宋末か元代のものだそうで、もともとは、足利氏が所蔵していた名品のようですが、一般的には「宮女図」と呼ばれています。
 官服を着て冠を被った人物が、右手の指で、左小指の先をつまむようなしぐさをしている手つきが、なんとも繊細なので、男装の宮女だとされています。しかし、腰に笛を挟んでいることから、笛の名手桓野王だという説もあるそうです。
 男装の女性でもいいのですが、その体型は意外とどっしりとしており、太めでいかついような感じがして、顔立ちと指の繊細さと不似合いなのですが、構図としては全体的に落ち着くのでバランスがとれています。
 髭がないので女性的にみえるだけで、宋代の絵画では男性もかなり指先は繊細に描かれますし、男だとしてもいいんじゃないか・・と、私はずっと思っていました。
 それに、この複雑な手のしぐさは、笛の演奏のイメージトレーニングではないのか・という疑問も持っているのですが、いかがなものでしょう。笛の演奏家が、笛を持たずに指先だけの動きをやるものでしょうか?
 桓野王という人は、桓伊といい、晋代の人物で、梅を愛でる曲を作曲したことでも有名だそうです。私ふうの男の絵姿で描いてみましたので、「宮女説」を裏付けそうな冠に挿した飾りは排除しました(意図的です~)が、普通の男性の官吏のスタイルです。
2008-09-04

東魏の菩薩

とうぎのぼさつ

 「奈良の仏像めぐり」以来、ほとけさまづいています。
 北魏が分裂して東魏と西魏になり、それが北斉と北周になり、北周からが出て、になる(というだけで、めんどうくさくて、世界史の時間にはあまり印象にない)のですが、日本の仏教美術の黎明期には、これら北朝の仏像の影響をうけています。
 北魏の仏像は、ややいかめしく固いのですが、東魏、北斉の仏像は、とても美貌の仏様が多いのです。
 東魏を分裂させたのは高歓であり、北斉をたてたのは、高歓の息子である文宣帝ですし、北斉の王室ときたら悲劇の蘭陵王の物語もありますが、美貌と嗜虐の一族で、そのような時代に美しい仏像・・・(もしかしたら、彼らの容貌もこれらの仏像に近いのかも、と不謹慎ながら楽しいですねえ)。
 東魏も北斉も都を鄴 (ぎょう)(曹操を思い出だしますね~)におきました。
 ところで、この時代の仏像としては、青州(これまた曹操を思い出します)の出土の菩薩像が有名で、青年貴族のような面立ちの、眼と口元にアルカイックスマイルを浮かべた、飛鳥大仏にも通じる仏様・・といわれている立像があります。
 両手が損傷しているので、どのような姿をしていたかわかりませんが、同じような衣裳をつけた北斉の菩薩像(こちらのほうが、より美しいお方ですが)を参考にして手をつけ、色をつけてみました。
2008-07-17

高歓

高歓

 北斉王朝の「高祖」
 テュルク系の鮮卑族出身ではなかろうかと言われています(別名の賀六渾というのは、漢人っぽくない。ガラハットとか? ゲオルギウス? まさかハーロックじゃあるまいな?)。若い一兵卒の時に、砦の城壁の上から見ていた上官の令嬢(後の婁皇太后)に一目惚れされて、出世の糸口をつかみ、次第に実力を蓄えました。
 北魏末の動乱で、北魏は二つに分裂し、鄴(ぎょう。曹操が銅雀台を建設していたところ)によった東魏は、実質、彼が牛耳っていたのです。そして宿命のライバル西魏の実力者宇文泰との決着をつけぬまま死にます。
 後を引き継いだのが長男の高澄(子恵)で、次男の高洋が皇位を簒奪し、北斉王朝をたてました。北斉で一番有名な人物は蘭陵王ですが、彼は高歓の孫にあたります。
 少し時代は下がりますが、隋代の武将の彫像から復元した鎧を着けて描いてみました。
2007-04-25

徽宗皇帝

徽宗皇帝

 同時代の最高の文化人にして芸術家。そして洗練された趣味のためには何事にも手間暇を惜しまない。
 しかし、彼の不幸は、最高権力者であったことです。つまりは、文化爛熟した北宋時代にあって、国中で一番お金を使える人間だったこと。
 もともと、即位する予定もなかった遊び人皇族の彼が、兄の早死にで急遽回ってきた皇帝の椅子。政治は水滸伝の悪役蔡京や童貫らにまかせっきりにして遊んでいた。そして、最後には前代未聞の捕虜になって北方まで拉致された皇帝になってしまったのです。
 しかし、彼がまさに遊びの絶頂にある頃には遊郭に出入りし、粋筋の人として有名でありました。そのような時期の彼が、水滸伝最大の梁山泊転換期のキーを握る人物にされています。つまりは、遊郭で、宋江ら反逆者を朝廷で雇う約束をしたのですから・・・。
2007-02-01

王献之

王けんし

 書関係では、王献之より、父親の王羲之の方が有名でしょうか。
 書道をやらなくても、光明皇后が王羲之の書をほしがったとか、唐の大祖が尊重したとかで、蘭亭序だとか、楽毅論だとかまで思い出せそうですが、父と子で二王とセットで呼ばれます。
 しかし、今回は、四君子の菊、梅、蘭、竹の最終回として、竹を愛した人として登場願いました(菊は本来、陶淵明で書かなければならないのですが、架空の人物になっていますが・・)。これで、秋冬春夏がそろいました。
2006-08-27

黄庭堅(蘭)

黄庭堅(蘭)

 四君子は、菊・梅・蘭・竹ですが、蘭の花をめでた文人として、黄庭堅(山谷)が上がっています。
 蘭の品のよい香りを論じて、香道の先駆者とも言われる風雅な文人で、蘇門四学士としても知られる人物ですが、かのちょっと、いささか度の過ぎた親孝行談をあつめた二十四孝の一人にもエントリーしています。あまり、いただけない説話としては、妻や下女なども大勢いる屋敷に住みながら、母親の世話を自らしていて、真偽の程はわかりませんが、尿瓶の始末までしたという話がまことしやかに伝わっているどで、実際は相当のマザコンであったかもしれません。
 帝王の花、高貴な花とされる蘭を代表する人が、少々情けない気もしますが、まあ、蘭の花と母親を愛した孝の人であった・・・そういうことでしょうかねえ。
2006-04-30

陸游

陸游

南宋の詩人。
 この人が何で有名かいうと、情熱の詩人、というキャッチフレ-ズがついたのも、妻、唐琬との別れと再会をめぐる物語めいた悲恋のせいだと思います。
 母親の親戚の娘であった唐琬を妻に迎えたけれど、その母との折り合いが悪く、離婚させられました。母に内緒で、離婚後もこっそり別の場所で会ったりしていたけれど、結局二人とも、家のために違う相手と再婚しましたが、生涯思い続けたようです。
 後に一度だけ、新しい夫に伴われた唐琬に出会いますが、語り合うわけにも行かず、心の丈を詩に託して書きつけ、それを見た唐琬は、現在の夫に頼み込み、心づくしの料理を陸游に届けたとか。しかし、彼女は程なく死んでしまい、ついに悲劇は完結しました。
 この陸游に、女性になりきって「姑悪」と泣く水鳥の声の悲しさを、苛められる嫁に託して詠んだ詩があります。
 彼自身の生涯も、若い時に主席進士をのがした(同時受験に権力者の孫がいたので、そちらに譲らされた)ことから、出世の歯車が狂い、地方官を転々とし、生涯ドサまわりを続けてことが、かえって詩作に深さと広がりを与えたと言われていますが・・・さて。
 華やかで激しい愛国的な詩風と、田園生活を謳歌する細やかな詩風との両極を揺れ動いていると言われますが、2面性のある詩人は、私生活の悲劇や不満を、無理やり飲み込んでいたのかもしれません。
2005-12-28

柴栄

さいえい
 五代十国の乱世。その最期の後周の皇帝です。織田信長にたとえられる未完の英傑。あと一歩で中原統一という寸前で病死した。彼の残したおいしい部分を引き継いで統一王朝をこしらえたのが趙匡胤。宋の初代皇帝です。
 しかし、柴栄は確かに信長チックで、発想がユニーク。南唐攻めの時、江南は水軍という三国志以来の常識を無視し、軍船に駱駝部隊をつんでの攻撃だなんて、アルプスを象で越えたハンニバルも顔負け。また北の契丹攻めは、運河をぶちぬいて水軍をどっと送り込み、南船北馬の伝統を覆してしまったんですねえ。ちなみに「水滸伝」の柴進は彼の子孫ということになっていますが・・・。
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