顔回

がんかい

 顔回(字は子淵)、孔子の弟子の中で、一番有名なのではないでしょうか。
 かといって、彼が特に歴史上、何かを成し遂げたとか、一国を切り回したとかいうこともないのですが、ひたすら師匠である孔子が「彼ほど有能な弟子はおらなんだ」と、手放しで持ち上げ、誉めそやすからでしょうね。
 師匠の孔子より37歳も若い弟子で、将来を託すに足る人材であったけれども、31歳で死んでしまった・・ということは、孔子が68歳の時です。この年齢で後継者を失うということは、精神的にすごいダメージを負う事になりますね。
 そのようなことから、よけいにアイツがいたら・・とか、もっと生きていたらさぞ立派な存在になっただろうに・・とか、半分くらいは老いの繰言のような気もしなくはないですが、孔子にとっては、思想家としての自分の「生き方」というものの本質(あるいは、世間の評価)がわかってくる年齢ですから、その喪失感はすごいものがあると思います。
 しかも、本人は、特に儲かる仕事もなく、実家もたいしたことがないから、年中貧乏暮らしだけれど、それをちっとも苦にしない・・というか楽天的な人物で、頭もよければ、才能もあり、性格もよい(これは孔子だけが思っていたかもしれませんが・・)のに、仕事がない若者。
 そういう若い人は、今も沢山いて、そんな人材に、立派な仕事なり、立場なりが与えられる機会がないまま、死んでしまう(埋もれてしまう)社会なんて間違ってないかい?・・というようなことを孔子の中に深読みしてしまいそう。 
 で・・昔から私は、顔回にあまり「個性」を感じないのですが、場末の酒場で、安酒につきあって、いつまでもグチをこぼす中年にも、にこにこと話を聞いてくれる、やさしいけれどビンボーで無欲な兄ちゃん・・てとこかなあ。あくまでも・・イメージですが・・。
2009-09-11
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荘周

荘子

 荘周は戦国時代の思想家で、荘子と呼ばれます。
 教科書的には「無為自然」と覚えたのですが、「荘子」は、儒学者の本よりは物語的で面白いですね。
 また荘子といえば、やはり「胡蝶の夢」でしょう。
 荘周は、夢で蝶になったのですが、あまりに現実的だったので、目覚めて、はたして、私が夢で蝶になったのか、蝶が夢で私になっているのか・・しかし、私はわたしで、蝶は蝶だから、やはり違うのだ・・・「物化」とか「万物斉同」とかいう、ややこしい哲学的なお話は、高校の時に漢文で習ったことがある人がいると思いますが、ここから、色々な理屈が導き出されてくるのでしょう。
 まあ、思想家の荘子のこのお話は、けっこう好まれたらしく、画題などにもなっています。
2008-09-26

盤古

盤古


 盤古(ばんこ)というのは、昔々、謄写版のメーカーだったような気がするのですが、本当は中国の天地開闢神話の主人公です。
 太古、この世界は混沌として上下左右などの区別のない巨大な卵のようなものであったけれど、その卵の中に盤古が孕まれていました。
 彼は長い眠りからさめた時、卵の殻を破ったので、重いものは下へ、軽いものは上へと沈殿浮遊して、天と地ができました。そして、彼が成長すると、その体の大きくなるに従って天地は上下に押しひらかれゆきました。
 彼は毎日一丈ずつ成長し、1万八千年が経ったそうですが、天地を支える巨人は、ついに寿命が尽きて倒れたそうです。
 そして、彼の目は太陽と月になり、息は風と雲となり、声は雷鳴に、髪髭は、星に、肉は土地に、血は河川に、皮膚と体毛は草木に、歯は金玉に、汗は雨にと変わって、この世界ができたそうです。
 という伝説を聞いて、日本書紀の開闢神話を思い出すのですが、盤古神話事体は、さほど古いものではなく、最古の文献は呉(三国の呉です)の人が書いた「三五歴紀」が初出らしいので、日本書紀の神代巻は、この本を参考にした可能性がある・・・そうです。
 混沌の中に目覚める寸前・・というイメージで。
2008-09-25

項羽

項羽

  虞美人を出したら、この人が出ていないことを思い出しました・・。というより、なかなかイメージの定まらない人でした。
 なにしろ、漢墓の壁画で、鴻門の会を描いたであろうと言われている不思議な絵があるのですが、あれに出てくる中心人物は、どうみても「怪獣」で、それをどうしたら英雄項羽に見えるのだ・・という悩みがありました。
 映画も見たけれど、いかにもな英雄で、適度に二枚目・・う~んこれもちがうよなあ。なにしろ、彼は目玉が4つあったというのだから(中国の伝説では、時々、このような不思議な人物が出ます。詰まり、一つの目の中に二つの瞳があったそうです)その眼光や、フツーじゃないだろうし。
 でも、今回は、ごくフツーのイメージになってしまいました。

 実は、本日で1000記事目です。千人目(千日のアンです。千日前のあんさんやありまへん)はもう出ましたが、なぜ一致しないかというと、一度に9人とか5人とか大人数の記事もあったからですが、無事ここまで続けられたのも、訪問して下さる皆様のおかげです。有り難うございます。
2007-11-18

虞美人

虞美人

 有名な項羽の作だという詩で、劉邦に垓下で「四面楚歌」に追い詰められた時に、愛妾の虞美人に歌ったとされています。
    力は山を抜き 気は世を蓋(おお)う
    時 利あらず 騅(すい ) 逝(ゆ)かず
    騅の逝かざるを 奈何(いか)んせん
    虞や虞や 若(なんじ)を奈何(いか)んせん  

 わしには、まだ力と気力があるのに、負け戦でこんなことになってしまって、さしもの名馬の騅でもこの囲みを突破して走り抜けることができない。どうしたらよかろうか・・。それに、虞よ! お前をどうしてやればいいのだろうか・・。
    漢兵 己に地を略し
    四方 楚歌の声
    大王 意気 尽きて
    賤妾 何ぞ生に聊(やすん)ぜん 

 もう今は、楚の国までも漢の軍隊がすっかり占領しています。ほら、取り巻く兵士達は楚の歌を歌っていますもの(祖国から徴発されたのですわ)。あなたの気力が尽きてしまって、私はどうして生きていられましょうか。
 こうした詩を交わしたとされる最期の酒宴のあと、足手まといにならぬようにと虞美人は自殺した(あるいは、項羽が頼まれて殺した)などといわれてますが、史記にはそのことは書かれていません。ですから、生き延びたかもしれず、虞美人自殺説は「伝説」なのですが、悲劇の美女として好まれています。
 しかも、この詩で項羽が気にかけていた「虞」という人物が、愛妾であったという証拠もなく、幼い項羽の子供だったという説や、または寵愛の美少年だ、などというものまであるそうで、「虞美人」は伝説のベールですが、やはり女性のほうが「穏当」でしょうか。
2007-11-16

黄石公

黄石公

 若いもんは、意地悪じいさんとも、誠実に付き合えば、なんぞええことがある・・なんていう教訓?でしょうか?
 張良が若い頃、始皇帝の暗殺に失敗して、逃亡し、下邳に至った時、橋の上に老人がいて、履を橋の下に落として「そこな若造。拾って来い」と命令されます。張良は、もともと育ちのよい子だったので、お年寄りには親切にしなけりゃあならんし、と拾ってきてやりますが、老人はお礼を言うわけでもなく、横柄に「おい、履かせろ」といって足を差し出します。ここで、怒ってはならじと、ひざまずいて履かせてやるという親切青年に、「5日後の夜明けにここにきたら、いいことを教えてやる」と言い残して帰ってしまいました。話半分に聞いて、約束の日の朝、出かけると、老人はもう来ていて、「年寄りを待たせるとは何事じゃ。」と怒って更に5日後に来いといいます。そして、夜明け前につくと、もう老人は来ていて、待たせたと怒り、更に5日後、今度は張良は、意地になって夜中から出かけました。あらわれた老人は喜んで「お前は見所がある。これを授けよう」といって、書籍をもらうのですが、これが世に言う「三略」で、熱心に読んで勉強した張良が軍師になり、劉邦の天下統一を助けた・・という伝説です。
 後に黄色い石としてあらわれたので、黄石公と呼ばれます。
2007-08-11

屈原

屈原

  汨羅(べきら)に沈んだ屈原を慰めるため、笹の葉に包んだ米を投げ入れるようになったのがちまきの起こり・・という起源説話で有名ですが、イメージとしては、あまりに剛直、頑固で、まっとうすぎたために世にいれられない人物・・というイメージが先行しています。
 戦国時代の楚の国の政治家として、天下を狙う秦に騙されてはならないとして、しばしば王に諫言するも入れられず、結局、政敵に左遷されていた時に、秦によって都が攻められたと聞き、絶望して自殺しました。中国の英雄は、この人のように剛直で、ある意味、頑固で融通がきかないほど筋を通す清廉(しかも悲劇的)な人物が好まれ、その反面、あざといほど策略に長け、うまく立ち回り、天下や人々を動かす人物もまた英雄ですが、日本人は、この不器用で生真面目な人物のほうが好みのようです。 
2007-08-10

子貢

子貢

 言わずとしれた、論語のレギュラーでもあり、孔子門下の十哲の一人で、孔子の31歳も年下の弟子です。
 しかし彼は、放浪をして、あちこちに仕官がかなわなかった孤高の人孔子に付き従う高弟・・というイメージとはいささか違う側面を持っています。呉越物語の、呉国の滅亡の陰に、実はこの人がいたのです。
 史記によれば、子貢(本名は、二字姓の端木、名は賜)は、孔子に魯を救うように頼まれ、各国を弁舌で策にはめて行くのです。
 まず、魯を攻めようとしていた斉に赴き、呉を攻めろとあおりますが「理由がない」と言われると、呉に先に口火を切らせ、大義名分を作らせましょう」と、今度は呉に赴き「斉が魯を向いている間に攻めろ」とそそのかしますが、呉王は「越が背後をついて来るかもしれぬ」と策にのらぬので、「越には斉を撃つので、派兵させて、兵力を利用しなさい」とのせます。そして、今度は越に行き「呉の言いなりに兵を出せば呉は増長して斉を撃つだろう。そうすれば、更に晋までも野心を燃やすだろうから、その虚をつけばよい」と助言します。そしてそして、更に、晋に向かい、「呉が天下に野心を燃やしているので、備えよ」と忠告するのです。
 かくして、彼の弁舌と策略で、呉王は対に中原への野心を新たにして、背後を越つかれて滅亡したことは言うまでもありません。勿論、魯も斉にせめられませんでした。
 まるでところてんみたいなこの話は、史実ではないと言われているようですが、まさしく舌先三寸の遊説家ではありませんか。
 不器用そうな先生より、よほど、世故に長けていたので、孔子はそのような考え方を少し批判したりしたようですが、彼は商人であり、裕福で、孔子集団のいわばスポンサーであったので、あまり文句もいえなかったのではないでしょうか。
2007-07-18

越王勾践

越王勾践

 やはりこの方も出しましょう。一応、呉越物語の重要人物が出揃いました。
 言うまでもなく、呉王夫差に破れて、捕虜となり、厩の番人などさせられ、卑屈にこびへつらったふりをして命をまっとうしました。その屈辱を忘れぬように、苦い胆を舐めて復讐を誓い、ついには雪辱を果たします。そして命乞いをした夫差を拒絶して(なぜならば、自分のように仕返しされるかもわからんから)自殺させます。
 昔、1983年「日中国交回復記念」に「中華人民共和国出土文物展」というのが開催されました。いつか中国大陸に行けるようになれるのかなあなどと思っていた若い時、この展示会に駆けつけ、勿論、呼び物の馬王堆の帛画のおばさんの絵や、銀縷玉衣、章懐太子墓や懿徳太子墓の壁画など、まあ大サービスの絶品ばかり出ましたが、一番印象に残っているのは「越王勾践の剣」です。まさしく、会場で、この剣が青い光を放っているような気がしました。しかも越王勾践の剣だなんて!! 大興奮でへばりついていましたのが懐かしいです・・。背景に貼り付けてみました。
2007-07-17

呉王夫差

呉王夫差

 やはり、この人は出さなければならないでしょう。春秋の最後を彩る、呉国最後の王様ですから。
 伍子胥とともに王位を手にした呉王闔閭は、本来この息子を王位につけたいとは考えていませんでした。しかし、思わぬ戦陣での王の負傷・・そして臨終に際し、この危急の時に、兄を差し置いて弟を王位につけるのは人心を乱すことになるし、危険だとの伍子胥の助言で、父の後を継ぎました。
 そして、越に対する復讐心を忘れぬために薪の上に寝たという人物です。そのためもあってついには越に勝ち、王を捕虜にし、屈辱を与えた後、解放しようとするので、伍子胥が「許すのなら、初めから恩を売りなさい。あそこまで侮辱しておいては、ただならぬ復讐心を育てただけですから許してはなりません」との助言を無視し、こうして越王勾践は、国に帰り、胆を舐めて復讐を誓います。
 その間にも、范蠡が送り込んだ西施に骨抜きにされていたのはいうまでもありません。そして、越に攻められ、呉国最後の王となって自殺しました。
2007-07-16

范蠡

范蠡

 呉越シリーズ?です。
 この人は、昔の日本人には人気がありました。理由は、児島高徳のエピソードです。
 呉王夫差に負けて捕虜になり、厩の掃除などさせられて苛められた越王勾践を、西施を送り込んで懐柔させて救う作戦を立てたのは、范蠡です。他にも、遺族に莫大な保証金を送ることを約束して自殺部隊を編成したり、伍子胥を夫差から遠ざけてみたりと、なかなかに残虐な策士です。
 呉が滅亡した時、これから大いに越でいい目をみようという次期に、勾践は残虐な性格で、ともに平和を過ごせる人間ではないと、越を去って行きましたが、これもまた、シビアな判断です(この時、西施も行動をともにしたという説もあります)。
 後に商人になり莫大な財を成したというエピソードから、彼が越にいた頃はかなり若かったのではないか・・とイメージしてみました。
2007-07-15

西施

西施

 中国四大美人の一人で、いわゆる傾国の美女です。
 彼女は、かの臥薪嘗胆の呉越の戦いで敗れた越王勾践(胆をなめた方です)から、勝者である呉王夫差(薪に臥した方)に献上された女性です。
 彼女にすっかり骨抜きにされた夫差は、よき助言者であるはずの先代からの重臣の伍子胥をうとんじ、殺してしまいます。そして、ついに越に攻め滅ぼされ、自殺する羽目になりますが、そのあと、西施は、彼女を呉に送り込んだ当の本人である勾践の臣下范蠡とともに、越を逃れてどこかに去ったとも言われています(もともと范蠡の愛人だったという説もあります)。
 絶世の美女ではないけれど、魅惑的な女性で、胸の病を患っていたとの伝説もあり(ひそみにならうの語源)、健康的なお色気・・なんてものではなくて、保護意欲をそそる病弱美人だったのでしょうか。
2007-07-13

眉間尺

眉間尺

 中国の名剣といえば、まず干将・莫邪の二振りをめぐるエピソードでしょう。
 楚の王が名工に剣の鋳造を命じて、工人は、雌雄二振りの剣を作りますが、雌剣のみを奉って、雄剣を隠します。それと知った王が工人を呼び出して殺しますが、引き立てられる前に身重の妻に雄剣の隠し場所を教え、生まれた子どもが男ならば15歳になったら剣を取り出してあだ討ちをせよと言い残します。
 その子どもが眉間尺で、成長して、雄剣干将を掘り出し、王の命を狙おうとするのですが、王もそれを知って干将を手に入れるべく、刺客を放ちます。 
 その刺客は眉間尺と出会って、自分が代わりに王を殺してもよいと申し出ます。しかし、眉間尺の首と剣がいるというのです。もはや自分ではあだ討ちが出来ぬと知った眉間尺は、その刺客を信じて剣を託して自殺し、刺客はその首を持って王に面会し、大釜の中でゆでられる眉間尺の首を王に覗かせて、その首を切り落とし、自らの首も釜の中に切り落とすという壮絶な物語です。
 魯迅の小説でも有名なエピソードですが、魯迅の意図は、この刺客と眉間尺との間の信頼は「恋愛」であるとほのめかしているという説もあるそうです。そうだとすると、恋人に首を託し、またその相手も、目的達成の後に死ぬ・・というのも納得できないわけではないような気もしますが(三つ巴という図は、この3人の首が釜の中でぐるぐる回っている様子だというのですが・・はたして)・・。
 眉間・・つまり眉と眉の間が1尺もあるという特徴ある顔だったので眉間尺と呼ばれた・・というのですが、そんな広い顔をマトモに絵にすると、とっても「恋愛」沙汰にはならないですよね。
2007-07-04
 

伍子胥

伍子胥

 元はの国の廷臣でしたが、父と兄が讒言によって無実の罪で処刑されたので、主君を深く恨みつつ国を脱出し、当時新興であったの国に亡命しました。
 新天地において呉王闔閭の即位をはじめ、功績があったので、重臣となりました。勢いをつけた呉が、楚の都を落とした時は、父と兄の直接の仇であった楚の先代の王墓を暴いて、屍を引きずり出して鞭打つということまでやる気性の激しさはつとに有名です。
 呉が代わりして夫差が即位してからは、初めは彼の補佐で臥薪嘗胆の故事の如く、ライバル越との戦いを勝ち抜いたのですが、激しく徹底した性格の伍子胥と王との関係が上手くいかなくなり、結局は夫差から属鏤(しょくる)の剣という名剣が届けられます。
 これは、「自害せよ」との命令で、伍子胥は自死に臨んで「我が目をくりぬいて門にかけよ。越が攻め寄せて呉の滅びるさまを見たいのだ」と、これまた激烈な言葉を残します。
 彼の老齢の絵は、穏やかな風貌に描かれているものが多いのですが、そんな枯れたじいさんじゃなかっただろう・・ということでこういう風にしてみました。
2007-07-02

専諸

専諸

 歴史上の刺客といえば、荊軻が有名で、狙った相手も始皇帝という大物なら、親友の高漸離の悲劇も哀歓をそそるので、繰り返し語られ、映画にもなるというメジャーぶりですが、史記の刺客列伝で有名な物語に専諸(せんしょ)があげられます。
 彼は、春秋時代の呉国の公子光が伍子胥と図って、王を暗殺するために、刺客として選ばれたのです。
 呉王に近づくために、専諸は料理人の修業をします。そして、いよいよ宴会の席で、焼き魚の腹の中に剣を隠し、王の前に運んで、すばやく剣を取り出して鎧を着けた上から刺し通して殺してしまいます。
 勿論、この時は目的を果たしながらも、王の護衛に自らも殺されるのですが、彼に「仕事」を依頼した公子光は即位することが出来ます。これが呉王闔閭で、伍子胥や孫武の助けを得て覇者への道を進みます。
 この時、専諸の用いた剣は「魚腸」と呼ばれて、呉の国の名剣となりました。
 後に、この時の魚腸剣など3000本を闔閭は墓に埋めたので、三国呉の孫権が、池になるほど掘ったけれど見つからなかったそうです。焼き魚の腹に入るというと小さな匕首のようなものだと思いますが、殺された呉王が好んだという黄魚は、石持だそうで、40cmの大きなのがあると聞いたので、古代だともっと大きいかもしれんと、バカでかい魚にしてみました。
2007-07-01

徐福

徐福

 巨大な帝国を築いた始皇帝にも、大きな悩みがありました。
 始皇帝コーナーでも書きましたが、国家経営が自分でなければできないということです。これは自信とかうぬぼれではなく、客観的に、この国になくてはならないのは自分だということがよくわかっていたのでしょう。
 彼一人でもっている帝国ならば、できるだけ自分自身が長く皇帝でいなければならなかった・・・それは、ある意味悲惨な事実で、そういう彼が頼ったのが「不老長生」。決して、何時までも、好色美食の権力者生活を続けたいという俗な根拠ではなかったのですね。
 そういう始皇帝の「弱み」につけ込んで、色々な山師が集まりますが、徐福は東方に仙薬を探しに行くという一大プロジェクトを任されたのですが、これはある意味、コロンブスやヴァスコ・ダ・ガマと同じで、国王がスポンサーとなったのですから、早すぎた大航海時代ということになりますね。
 果たして、徐福が日本についたのかどうかは別として、自分一代ではたどり着けないかもしれないので、若い後継者とともに出航するという、いわば、宇宙旅行にも似た壮大な計画ではなかったのでしょうか。
 ということで、徐福は、髭のじいさんではなくて、出資者の始皇帝がその「力」を信じるほど、若い冒険家ではなかったか・・と想像してみました。
2007-06-29

趙合徳

趙合徳

 漢代に成立したかのように巧妙に脚色された六朝から唐代の初め頃に書かれた小説「趙飛燕外伝」があります。
 漢の成帝の皇后趙飛燕とその双子の妹趙合徳の物語です。2人は、性格や美しさの質も全く違う女性で、ともに成帝の後宮に入ります。姉の皇后は華やかで派手な美人。妹はしっとりとしたおとなしい女性。なにかにつけてその場の主人公になり、注目を浴びる姉は、次第にわがままで高慢となり、世継ぎの子どもがほしいために、他の男たちと浮気をしまくります。それを、こっそり庇う妹ですが、実は、けっこうしたたかで、帝の愛情をつなぐすべを心得ています。姉は皇后という地位が、最高の栄耀栄華と思っているのに対し、妹は己の心情をコントロールして、皇帝そのものを、すっかり身も心も虜にしています。
 そして、皇帝に媚薬を大量に飲ませ、そのために帝は、彼女のベッドで死んでしまいますが、「私は天下の君主を意のままにあしらい、この上ない寵愛をほしいままにした」と言い放ち、後を追って死んでしまうのです。ちょっとコワイ女だと思います。
2007-04-24

霍去病

かっきょへい

 漢の武帝の時代に、周辺民族の雄たる匈奴を何度も破って戦功を上げた若き天才将軍として有名です。
 彼は皇后の甥であり、叔父が大将軍衛青であったことから、若くして抜擢されたのですが、単なる七光りではなくて、本当に才能があったようですが、ある意味苦労人の衛青と違って、何の遠慮もいらない坊ちゃん育ちのゆえに、大胆な行動が取れたのかもしれません。
 杖を突き刺したところから酒の泉がわいたという酒泉の逸話も、いかにも天才っぽい。当然、武帝の御覚えもめでたくて、24歳で病死した時には、自分の墓と並べるほどお気に入りでした(武帝の寵童だったなんてフィクションもある)。
 こうした戦功の逸話とはちょっと趣の違う物語があります。
 武帝が「不老長生」に凝って、霊験あらたかな神仙を宮中に勧請していたのですが、その神仙が、ある時、霍去病のところにやってきて「秘法を伝授しよう」といったそうです。これが、威厳ある白い髭の老人の姿で、空飛ぶ術を授ける・・というのなら、喜んだのでしょうが、この神仙は女仙で、「お前と寝てやろう」と迫った。つまり、房中術の達人で、男女の交わりによって「不老長生」を目指す流派?だったのです。この申し出を霍去病は、断ったのですね。もし彼が、もう少し年をとっていたら、絶対断らなかったでしょうね。「据え膳食わぬは、オトコの恥」な~んて言い訳して。
 それで、女仙人は「せっかく長生きの骨を授けてやろうと思っていたのに残念じゃ」と言って、それで霍去病は早死にしてしまったとか。・・・もしかして、若い子に言い寄ってフラれた年増女の恨み?
2007-04-21

孫武

孫武

 宮本武蔵など、日本の剣豪は「兵法家」と呼ばれていますが、本場中国で「兵法家」といえば、孫子のような軍略家のことをさします。読み方も日本人は「ひょうほう」と読むようで、「生兵法(なまびょうほう)は怪我のもと」ということわざなどもあるくらいです。
 さて、春秋時代に孫子といえば、孫武と孫臏(そんぴん)がいますが、いわゆる「孫子の兵法」といえば、孫武の著作を著すようですが、この人の逸話としては、名高い娘子軍ですね。
 彼を雇った呉王は、彼を試そうと、からかって「後宮の美女達を軍隊に仕立て上げろ」と命じます。そして、孫武は、軍令を定めて命令を下しますが、冗談と思って孫武の言うことをきかない宮女たちの将(王の寵姫)を斬って捨てて軍規を正し、訓練を施します。軍隊というものが冗談や遊びではないということを王に示したのですが、このエピソードについては、なんとも釈然としないものを感じますね。確かにその通りかもしれませんが、本来後宮の女性達は、王に楽しみを与えるために仕えているので、この軍事訓練を「楽しみ」にしようとしていたのに、男の世界の理屈を持ち込んだ孫武に殺されるというのは、気の毒ではないでしょうか。まあ、本当に悪いのは王様なんですけれど。新任の男の主任を迎えた、女ばかりの職場に苦労したことのある男性は、この話で溜飲を下げるのかもしれませんが・・。
 ところで、かの三国呉の孫氏は彼の子孫を名乗っています。
2007-03-31

南子

南子

 春秋時代の衛の霊公の夫人
 宋の国の出身で、昔の恋人宋朝を呼び寄せて臣下としましたが、2人の関係を知らないのは夫の霊公だけだった・・とか、また男色好みの霊公は、夫人の愛人を黙認していたとか言われます。
 このとかくうわさのある女性が、衛国を訪れていた孔子を呼び寄せたので、しぶしぶながら伺候し、また同じ車に乗ったことで、孔子は弟子の子路に非難され、激しく弁解しています。
 ですが、他国のファーストレディであるとこは間違いないのですから、呼ばれて「お宅の奥様は身持ちがよろしくないのでご挨拶はできません」とは、孔子も言えないでしょうし、会っただけで非難されるのは、孔子が気の毒な気もします。
 むしろ、南子は、当時にあって夫と同じように外交をこなし、礼節を説く人物に興味を覚えたということも、ある意味、けっこう開けた聡明な女性であったので、会ってみて魅力を感じたのは孔子のほうではなかったでしょうか。それで、子路に「先生、あの方に惚れましたね」などと言われて、しどろもどろだったのなら面白いのですが。
2007-03-12

重耳

重耳

 春秋の覇者といえば斉の桓公ですが、重耳も地味な人生を送りながら、しぶとくも生き残り、覇者となりました。
 ちなみに姓は姫ですから姫重耳として表記しなければならないのですが、名前だけの方が売れて?いるのでそうします。
 昨日登場の驪姫が、自分の息子を後継者にしたいばかりに、献公の長子であった申生を罠にはめて殺しましたが、二男の重耳と三男の夷吾は亡命します。
 驪姫が滅んだのち、先に国に帰ったのは弟の夷吾で、今度は弟から逃れるためにあちこち流れ歩く亡命生活を続け、一時は斉の桓公に気に入られ「娘婿になって、うちの店で番頭役にでもなったくれや」と厚遇されますが、彼についてきた部下たちは、「社長になるおひとが他人の番頭になってどうします」と寝ている間に主を引っ担いで脱出します。
 このような放浪生活を19年も続けた後、やっとのことで故郷に返り咲いて、はれて即位したのは60歳。かくして大器晩成の見本みたいな覇者です。
 60歳でこーんなに、じじむさくはなかったとは思うのですが、まあ、老人君主代表ということでじいさんキャラにしました。 
2007-02-2

驪姫

驪姫

 斉の国のおさわがせ美女が文姜だとすれば、同じく覇者となった文公の出たの問題?美女が驪姫です。
 晋の献公が、驪山のふもとにすむ民族を征服して、いわば戦利品として連れ帰ってきた女性の一人。その美貌でもって献公をとりこにし、やがては、自分の生んだ子供を跡継ぎにしたいがために、太子の申生を罠にはめ、二人の弟たちを亡命させた・・というのです。
 しかし、彼女は、故郷を奪われ、無理やり他国に来て、年老いた「夫」以外に頼るものはなく、後に年長の公子たちが即位すれば、どのような立場もないのですし、ましてや、自分の子どもなどどうなるやもわかりません。
 唐突ですが、カエサルの死後、カエサリオンを守るためにクレオパトラもがんばったではありませんか。それでも、アントニウスと組んだばっかりに結局国は滅びましたが、驪姫もまた、結局自分の子どもを跡継ぎにできたけれども、諸臣たちが納得せず、滅ぶよりほかなかったのです。
 このような彼女は、エキゾチックな女性ではなかったか・・と考えて、春秋時代ものとしては、些か時代錯誤ですが、現代の少数民族的な色合いの衣装にしてみました。
2007-02-25

管仲

管仲

 やはりこの人を出さねばおさまりますまい。せっかく小白こと斉の桓公を出したのですから。
 そもそもは、小白の兄であった公子糾についていて、敵対関係になった小白を殺そうとしたのですが失敗。主君糾は攻められ、斉と事を構えたくない魯の国(主君はかの文姜の息子です)で殺されます。彼自身も処刑されるかと思いきや「身柄を引き渡せ」とのこと。さぞや、本国でおそろしい拷問が~・・というよりは、なにやらウラがありそう。それを見抜いていた魯の国の人間もいたのですが、強制送還されます。
 そして、自分が殺そうとした小白(桓公)に重用されることになるのです。それは管鮑の交わりで有名な彼の親友鮑叔牙が、管仲の才能を惜しんで、自分の主君に採用を勧めていたからです。そして、彼の補佐のもと、桓公は覇者となるのですが、管仲こそは本当にプロフェッショナルであろうと思われます。情にからめられたものはないのでしょうし、また桓公のほうも、昔の恨みなど捨てて、才能を評価したのですから。
2007-02-24

小白(斉の桓公)

小白(斉の桓公)

 斉の襄公は、実の妹文姜との不倫の批判をかわすために暴虐な行動に出て、猜疑心が強くなり、二人の弟は生命の危険を感じて国外に亡命します。
 糾は謀臣管仲をともない魯に、小白は鮑叔牙と莒へとそれぞれ身を隠しますが、兄襄公が殺されると、2人は後を継ぐべく、故国に急ぎます。ここに及んで、お互いがライバルになったのです。
 この「どちらが先に駆けつくか」状態のときに、管仲は、小白を待ち伏せして弓で射殺したと思い込んで、糾はゆっくりと帰国しますが、幸運にも矢が帯の留め金にあたった小白は、とっさに一芝居打って死んだふりをし、霊柩車にのって急ぎ帰国。そして兄を出し抜いて即位しました。これが春秋の覇者斉の桓公です。
2007-02-23

文姜と襄公

文姜と襄公

春秋時代のは、周王朝建国の名臣太公望を祖とする由緒ある国です。
 その15代目の君主であった襄公は、即位前から実の妹文姜とただならぬ関係にありました。このことを苦々しく思っていた父によって、文姜は魯の公家に嫁ぎますが、父の死後、兄が公位につくと里帰りをし、またしてもよりを戻してしまいます。
 そして、秘密を(というほどでもなく、公然の間柄でありましたが・・)文姜の夫に知られてしまい、ついに襄公は、魯公である妹婿を殺させるいう無謀までやってしまいます。しかも魯国に対しては、自らが命じた実行犯の彭生にのみ汚名を着せて処刑してしまうのです。魯では、気の毒なダンナの後を告いだのは彼女の産んだ子供です。しかし、実子が公になったというのに、魯には帰らず、天下はれて?兄のもとに止まり続け、襄公は世間の批判に抵抗するためか、暴君となります。
 この後、因果応報・・襄公が彭生の呪い?で非業の死をとげ、国が乱れるのです。  
2007-02-22

董賢

とう

  断腸といえば、はらわたがちぎれるほどの激烈な精神的苦痛をいいます。断琴といえば、琴の名手伯牙が自ら演奏をやめるために琴を断ち割ったということですが、「断袖」といえば、いささか風雅を欠いて男色のことをさします。
 その言葉の語源となったのが前漢の哀帝の寵童董賢です。中国の故事なのになぜ和風か・・というのもごもっともですが、イメージ的に日本の若衆が思い浮かんだので、このような図柄を描いてしまいました。
 あるとき帝は、彼と昼寝をしていて、所用があったので起きようとしたところ、彼が帝の方袖を敷いて寝ていたので、起こすにしのびず、袖を断ち切って起きて行ったという故事によります。大司馬に任命されたり、玉璽まで預けるほど愛されていたので、帝が若死にをした後、残された董賢は処刑されてしまいました。
2007-01-24

鐘子期

しょうしき

昨日登場の、伯牙の演奏の聞き手です。
 鐘子期は、木樵でありながら、自然の中で風雅を解する心を持った人物で、演奏する音楽を聴いただけで伯牙の心を全て言い当てたということになっています。
 ですから、類まれな鑑賞眼の持ち主・・ということで「違いがわかる」という意味にも使われるのでしょう、三国志でおなじみの呉の名将周瑜が、「私は鐘子期の耳を持っている」と確か称していたような気がします。音楽に造形が深い・・というより、すぐれた鑑賞者であると自負していたのでしょうか。
 さて、伯牙は、鐘子期の墓の前で、哀しい気持ちで琴を弾いたのですが、彼の名声を知った人々が押しかけ、皆がその演奏を聞いて、終わると、笑顔で拍手喝采したので、悲しみに浸りきっていた彼は「私の音楽をわかってくれる唯一の友が死んだ今、もう二度と演奏しない」と琴を断ち割ったとか。一般大衆の聴衆などいらない・・という、ある意味とても傲慢な音楽家ではないかという気もしますが・・。
2007-01-19

伯牙

伯牙

 伝説の琴の名手で、フルネームは愈伯牙。 修行のためにあちこち旅をして(東の海の果て蓬莱山にまで行ったらしい)腕を磨きましたが、いまだ心に適わないと思っていたあるとき、川を遡っていて興が赴くまま、「高い山」を思いながら演奏すると、岸で聞いていた人物が「まるで高山のようだ」と言い、今度は「流水」を思いつつ奏すれば、「水が流れるようだ」と、彼の演奏は全て、その心を読むように聴いてくれたので、大感激します。
 その人は鐘子期といって、木樵だけれど、素晴らしい聞き手であったので、また必ず会おうと約束して旅の帰りに立ち寄ると、すでに彼は病死していました。伯牙は悲しみのあまり、彼ほどの聞き手を失っては、演奏する価値がないと言って、琴を叩き割ってしまいました。
2007-01-18

李氷

りひょう

 四川にある氾濫が多かった川である岷江の治水をするために、都江堰を作って、治水事業をした人物が李氷さんです。彼は、天下統一を目指す秦王が、軍事目的でこの事業を思いついて派遣されてきた秦の役人です。
 8年にもわたる大工事で、この川を農業用水として、そして軍事的な物資搬送の川として利用できるようにしました。本来地味な仕事人で、土木技術者なのですが、いつの間にか庶民の信仰の対象となり、息子の二郎とともに祭られています。この二郎さんが、道教の神二郎神君と混同されているので、李氷自身もだんだん神がかってきました。
 地味な秦代のおじさんで描いてみました。
2007-01-16

殷の湯王

湯王

 殷(あるいは商)の時代といおえば、それはもう古くて(なにしろ、トロイの陥落と周の建国が近いというくらいだから、さらに古い)、一体どのような服装をしていたのか・・・一向にわかりません。
 殷代の玉人などで復元を試みているようですが、それにしても、中期のもので、ましてや、殷の建国の英雄など、とてもわかりません。
 しかし、まあ、そこはそれ、勝手な想像ですが、やはり玉人などからの復元で、紀元前1200年以前の殷の湯王です。夏王朝の最期の王桀を滅ぼして、名臣伊尹の助けを借り、殷王朝を起こしました。名前は天乙、子履というそうです。
2006-10-06
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Author:乱読F
歴史上の人物を沢山描きたい・・。
実在・架空2000人描き

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