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澁沢龍彦

渋沢龍彦
 本日、8月5日は作家澁澤龍彦氏の命日です。
 若かりし頃、ものすごくハマっていましたので・・・。
 肖像画は追悼絵が多いですけど、故人の好みでかなり、「美化」されるものではないかな・・・。
 久々に絵を描いてみた。
 私風に・・・・有名な髑髏持ち姿も、そそれれましたけど、あえて何にもなしで・・。ちょっと・・印相風に・・・。
背景は、もちろんモンス・デジデリオです・・・。
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オーガスト

アウグストゥス
とうとう、八月になってしまった・・・

束帯を着よう

束帯を着よう

 やはり絵が描けませんでした。
 以前、作った束帯の着用次第を、時計回りで。
脳内BGMは「クシコスの郵便馬車」で・・・。

夏の少年



 日差しは暑いですが、ちょっと、こんな絵でも・・・。

縫物師

縫物師

 職人歌合に登場する「縫物師」です。
 縫い物とはいっても、お裁縫ではなく、刺繍です。
 木製の枠を使って布を張り、右手は上面に、下に左手を回して、両手で針を使います。
 この木枠は、現在も使われる、日本刺繍と同じもののようです。右片袖を脱いで作業をする様子ですが、他の女性の職人のように、髪を結わえたり、まとめたりしておらず、前掛けや襷も使っていないし、着ている着物も模様のある優美なものなので、上品な手作業、とされていたのでしょうか?

納曾利

納曾利

 唐突にこんな絵をあげます。
 雅楽の納曾利(なそり)です。一人舞いの時は、落蹲(らくそん)・・・あるいは、その逆で、一人舞が納曾利、二人舞が蹲蓀というところもあるそうです。
 二匹の龍が舞い踊るという曲目で、双龍舞とも・・。
 
 (長い間絵を描いていないので、とうとう広告が入ってしまったので、苦し紛れに、昔の絵を上げた・・・)

足利直冬

足利直冬

 足利直冬は、一応は足利尊氏の一番年長の子供ということになっています。
 しかし、幼い時から寺に預けられて喝食をしており、足利家の子供とは認められていなかったようです。
 鎌倉幕府が滅びた後、父を訪ねて上京したのですが、尊氏はとりあわなかったので、うつうつとしていたところ、身柄を預かっていた僧が、足利直義に相談。直義のとりなしにも、尊氏は認知しなかったので、結局は叔父である直義が引き取って養子にして、直冬と名乗ります。
 その後も、尊氏や正妻の赤橋登子、義詮も彼の存在に苦々しい思いを持っていたと思います。
 和歌山方面での反乱鎮圧に初陣で出撃し、戦果をあげてからは、ますます疎んじられるという不幸な状況になります。
 唯一彼を認めていたのは直義だけですが、その後、西国方面に長門探題として都を離れますが、それは、ていのよい左遷なのか、それとも、都を離れることによって安全を確保するということなのか・・。
 はからずも、九州方面に転戦して善戦し、勢力を拡大し始めると、彼の存在は危険なものになります。
 中央での、直義と高師直の対決にも、彼の存在は影響を与えたでしょう。
 観応の擾乱を経て、直冬にとって、唯一の理解者であった叔父直義を失って、ついに父と弟を敵として攻め上ってくるという行動を起こし、一時は尊氏も義詮も都を捨てて逃げるという事態に至ります。
 しかし、彼の都占領も一時的なもので、やがて敗退し、西国に落ち延びて消息を絶ちます。
 その後は歴史の表から消え、西国で生き延び、70歳の寿命を保ったそうですが、本人にとって、それは不幸であったのか、あるいは幸せであったのか・・・。中央の彼の父尊氏も、兄弟、義詮も基氏も、決して安穏に栄華を楽しんだわけではないのですから・
 後に、義満の時代になって彼の息子が、相国寺の僧として都にいたとか、また嘉吉の乱の時に、孫が赤松氏に担がれたとか言う消息があるようですが・・・。こちらに、直冬本のこともちょっと書きました。

  喝食としては、もうそろそろやめどきかな・・と、鬱々として未来を想うスネた18歳のころ・・というイメージです。
 十五、十六、十七と、私の人生暗かった・・・・ってとこでしょうか?

足利尊氏と足利直義

尊氏と直義

 最近、足利兄弟にハマって(・・というか、この二人に高師直を足した3人組ですが・・・こっちでシリーズ化してます。)いましたけれど、今日は足利直義と高師直の命日(本当は旧暦ですから、もっと暖かいと思いますが)だということで、まあ、こういうのもありかと・・。
 実際に、足利直義が、兄によって毒殺されたかどうかは疑わしいところですが、小説やドラマなどにはそういう風に書いてあるし、歴史の本でそう書いてあるのも多い。
 まあ、尊氏にとっては、自分の息子義詮に跡目を嗣がせたいと思うけれど、、弟直義自身はともかく、彼の庇護のもとに、嫡子義詮の異母兄にあたる足利直冬がいて、彼がなかなかと目の上の瘤。
 多分、高師直と直義が対立していた背後には、次世代をめぐっての対立があった? 尊氏にしたら、これで、弟が失脚したらまあそれでもよいか・・と思っていたかもしれないけれど、九州にいて、多分「義詮よりデキがいい」直冬の存在は、正直、脅威であったでしょうね。尊氏は、「何で、俺が捨てた息子を、お前が拾うんじゃ! いらんことしおって!」と、直義には言いたかったに違いない。
 直義は、観応の擾乱で敗北し、鎌倉の寺に幽閉されていて、そこで死んだということになっていますが、このお寺は、父親の菩提寺であるし、尊氏の屋敷や、自分の旧宅も多分敷地内にあった場所というから、実際は厳重に牢獄に入れられていたというわけではなく、謹慎という扱いだったのではないかと思う。
 騒乱の最中に病にかかり、これ以上戦闘を続けられなくなって降伏し、実家で病気療養をしていて、そのまま病死した・・というあたりではないかと想像しますが・・・。
 ですけど、まあ、構図ネタは、中野京子「怖い絵」シリーズでも取り上げられた、レーピンの「イワン雷帝とその息子」であることはバレバレでしょう? 

勝軍地蔵

勝軍地蔵
 額に第三の眼があり、ブキミな表情ながら、束帯に甲冑を着た姿は、「勝軍地蔵」と呼ばれて、鎌倉時代末頃から、室町時代に信仰されたお地蔵様の一つ。
 閻魔大王と、僧形の地蔵尊が、同じ仏の違う姿だと言われますが、この貴族的な武人の姿は日本独特のものです。
 藤原鎌足の神格化した変身後の姿tも言われ、後には愛宕信仰とまじりあって、白馬にまたがり剣をささげる完全武装の武神になります。勝軍(しょうぐん)が将軍に通じることから、室町幕府の将軍や、徳川家康に信仰されました。
鎌足は、蘇我入鹿を誅罰して、天智天皇を助けたということや、鎌倉時代に摂家将軍がでたことなどから、武神としての性格を持ちはじめます。
 談山神社にある「勝軍地蔵」のスタイルに、現在も残る即位儀礼の武官の武装姿を参考に書いて見ました。

足利義満

足利義満

 足利将軍の中で、一番派手で、一番、黄金時代の将軍だった人。
 垂れ目は、おじいさんの尊氏から引き継いでいるかもしれませんが、お髭を伸ばしたスタイルは、もしかしたら、後醍醐天皇のマネでもしているのかな?
 この人の息子の義持も、長いひげを垂らしていますね。
 三代目にして、ようやく安定を見せた足利幕府ですが、この人は、もしかしたら天皇家までのっとっていたかもしれないっていうくらいの野心満々のお人。
 そういったことは、こっちに少し書いています。
 有名な僧形の姿ではなくて、若い頃の派手な将軍のイメージで・・。
 背景は、室町御所にあったという、枝垂れ桜です。寒いけれど、なんだか、早く春が来てほしいから・・・。

河野八郎通忠

河野八郎

 鎌倉時代の未曾有の国難、蒙古襲来において、弘安の役で、御家人であった父親の河野通有とともに出陣した、通有の嫡男。
 「蒙古襲来絵詞」には、当時、14歳であったとされています。
 当主の通有が、河野家の伝統である、合戦中は烏帽子を付けない、という習慣を守って、ざんばら髪で、由緒ある赤い直垂を着た姿で、この絵巻の主人公竹崎季長と対面する場面で、父親の後ろに、小具足姿で控えるところが描かれています。
 絵の具の剥落はありますが、よく見ると、直垂の端袖と前身頃は、石垣紋様と、紅葉柄のような華やかな片身代わの直垂のような気がするので、多分、共布の袴も同じようになっているのではないかと、考えてみました。春日権現験記絵では、後ろから観たら互い違いに柄のある直垂を来た人物が登場します。
 しかし、この少年は、後々、父の跡目を巡って、異母弟と骨肉の争いを繰り広げ、どうやら敗北したようです。
 いまだ、ういういしい、時代、烏帽子をかぶっているので、元服して、もう一人前ということですが、中学2年生位の年頃に、見えますでしょうか?。

平治物語絵巻の歩兵

hohei

 今頃ですが、明けましておめでとうございます。
 「平治物語絵巻」に登場する歩兵です。
胴丸鎧をつけて長刀を持ち、両腕に籠手をつけています。足元は短い袴に脚絆のみで動きは軽快だったでしょう。
弓矢中心の騎馬戦ではなく、接近戦で、地上から、馬の足を切ったり、騎馬兵を襲ったりします。
 しばらく絵が描けなくて、これも、年末から長い間ほったらかしにしていたものです。
 なかなかまだ本調子ではないのですが、ぼちぼち復活します。
 新年の「おめでとうイラスト」が描けなかったのは、今年が初めてではないでしょうか?
本年もどうぞ、よろしく。

猫です・・・。

ねこ
 人名事典に、なぜに猫?ですけど、これ、親戚の猫です。
先日、ニヤッと笑っていたので・・・。

源頼朝と平重盛

頼朝と重盛

 国宝の神護寺三像が、源頼朝像とされていたのが、足利直義では? また、平重盛とされていたのが、足利尊氏?という説が出て、だんだんそんな感じになってきましたね。
 色々の説を読んでいると、だれを描いているにしても、神護寺の絵が、冠の笄がまっすぐなのは、やはりかなり時代が下がるよなあって思います。
 で、かなり頼朝の実像に近いのではないかと言われているのが、甲斐善光寺の頼朝坐像、平重盛は、よく分かりませんが天子摂関御影図平重盛像。 時代的に近いのではないかと。平重盛の、しもぶくれのふくよかな顔と、細い目、小さな口は、当時(平安末)では、かなり美男の「表現」ではないかな?
 二人をそれらの「顔」で書いて見ました。

足利尊氏

足利尊氏
 最近、手の指が痛いのなんのと「お絵かき」をさぼっていましたら、画面のトップに宣伝用画像が現われてしまった・・。
 で、近ごろ話題の、新しい肖像画が発見されたという足利尊氏を描いてみました。
 この肖像画を巡っては、日記の方にちょっと書いています。
 神護寺三像の「伝平重盛像」をめぐってはいろいろ論争があり、面白いのですが、当の本人は、おもしろくないでしょうね。
おもいっきり溜息の尊氏さんです。
 ですが、そういいつつ、神護寺の絵をもとにしました。尊氏さんの特徴はタレ眉、タレ目ですものね。

婆娑羅大名

ばさら

 バサラあるいは婆娑羅という言葉が、けっこうメジャーなのは、やはりゲームや漫画のせいでしょうか。
 この「バサラ」という言葉は、南北朝時代の頃に一時的にはびこった「流行」で、二条河原の落書できわまっているということでしょうねえ。
 「バサラ」で名を売っている大名が、茶会(後世のような、詫びさびのシブい要素はまだ微塵もない。闘茶などは、茶の産地を当てて賭けるという博打で、大騒ぎをし、酒も料理も盛りだくさんだし、芸人や、女性も呼んでの賑やかな茶会)をやるとなると、部屋は豪華なしつらえをして、飲酒、賭け事、なんでもこいの賑やかな宴会で、並外れたバカ騒ぎをする。
 そして、どこであれ、古からの権威や常識をあざ笑う、反骨精神。
 そういった事柄や、それをやる人たちを「婆娑羅」といいました。
 有名なのは佐々木道誉ですが、「太平記」の彼の宴会を述べたところには、室内の飾りつけは、国内外の名品や宝物を集め飾りたて、席は、外国の椅子・・つまり当時流行していた海外家具の曲録に、虎の皮や豹の皮を掛けたものを並べ、そこに、緞子金襴を纏った、派手やかないでたちの客が居並ぶ。
 勿論内装も、華やかな屏風や建具で飾り、柱には、わざわざ、派手な文様の錦を巻きつけたりして、思いっきり飾り付けたというから、その派手さ加減は、常気を逸していたのかもしれません。
 まさか、これほど、派手な直垂があったかどうかわかりませんが、能装束の雰囲気の衣装をまとう婆娑羅大名です。
 海外から輸入の「椅子」と「毛皮」が流行だった。おそらく、普通は髷を結って侍烏帽子をかぶっていたと思われますが、「出家あがり」もいたようなので、髪はバサっとばさら・・?
 時代的には、少し下がりますが、岩佐又兵衛の「浄瑠璃物語」の中に、でてくる、室内装飾が、派手な壁代やら、金襴の屏風、極彩色の布地を組み合わせて、柱に巻きつけて飾るといった、ちょっと過剰なほどの装飾的な室内が登場するので、背景に貼ってみました。

雨男たち

雨男

 残暑お見舞い申し上げます。
異常気象で、ここんところ、トンデモな豪雨があちこちで続いています。
風にも負けず、雨にも負けず・・
とはいいながら、日々、都市化した現代は、皆風雨に弱いです。装備も軟弱。
 日本古来の雨具である蓑笠は、束ねた繊維の方向に雨が滑って落ちるので、意外と防水性がいいのだとか・・・・でもまあ、持ち歩きには不便でしょうねえ。
 コンパクト蓑笠はやはり、ビニールカッパですかね。でもあれ。野球帽と併用すればいいらしいです。カッパの頭部分の下に野球帽をかぶっておくと、顔にかかる雨が防げて、前が見やすいとか。

今後、台風もあらわれるででしょう。皆さま、御健勝にお過ごし下さい。

考古学者たち

考古学者たち・・?

 考古学者と聞いてほとんどの人が、「インディ・ジョーンズ」を思い出していたのは、一昔もふた昔も前のことです。
 今だとどんなイメージでしょうねえ。
 このクソあついのに、現場をやっている方々はくれぐれも熱中症に注意して下さいませ・・・。
 また、ヒアリやマダニといった生物脅威もあります。温暖化時代には、アウトドア学問はますます大変になるだろうなあ・・。
 ちょっと昔では、考古学者イコール宝探し的なイメージがあったので、未開の地に埋もれたほろんだ王宮跡だとか、墓堀だとか・・・そういった関連で、「探検家」のイメージ。
 と言うことで、昔描いていたインディー・ジョーンズに、新聞で見たお髭の考古学者(割合最近の方です)、それと戦前の探検隊みたいな発掘調査隊の人の写真から描いてみました。
 熱い時に、暑い絵・・すみませんねえ。

末摘花

末摘花

 末摘花は源氏物語に登場する女性の中で、一番の不美人として表現される気の毒な人です。
 けれど、常陸宮の御姫様で、高貴な身分の人です。
 そして何と言っても毛皮の女王です。
 この言い方はちょっとヘンかもしれませんが、宮様の姫君なので、「女王」なんですし、父宮から持っておられるという超高級品の黒貂の毛皮・・つまりセーブルコートを持っておられる。
 黒貂のコートは古代日本にあって、高級な衣装で、「黒貂之裘」(こくちょうのきゅう)というと、大宮人の憧れだった。
 古代日本人も、奈良時代から盛んに輸入し、渤海や、あるいは蝦夷地のほうからまで買付していた可能性があるんですね。
 末摘花が、毛皮を着ているということから、奇抜な衣装として、奇怪?な容貌とあいまって、笑いものにしているのは、紫式部も人が悪いなあと思うわけですが、古風であり、変り者というのを、一昔前に流行った黒貂のコートというアイテムを持ってくることで、際立たせていると思います。
 で、この女王の毛皮はいったいどのようなスタイルだったのか・・・これについては、よくわからない・・・。
 なにしろ、平安時代の毛皮のコートが実在しているわけでもないし、絵画資料も残っていない・・。
 ですけれど、有名な話ですが、醍醐天皇の皇子重明親王が、この毛皮を8枚も重ね着していたという記事があるのですが、いくらなんでも、8枚も毛皮を重ねられるだろうか・・?
 八重の毛皮というような意味で、何枚も着ていたよという誇張の、8という数字かも知れないのですが、重ね着をすることがあったということですね。
 古代においては、黒貂之裘・・つまり裘(かわごろも)は、裾を引きずるような長いものと、丈の短いものがあったようなのですね。
 錦を裏地に使う・・あるいは内側に毛皮を貼るという二つの方法があるので、ちょっと、冗談に、内側に毛皮を貼った丈の短いものと、裏側を錦で裏打ちした丈の長いものとを重ねてみました。
 スタイルとしては、唐衣などのように裏地を折り返して着るというのがふさわしいような感じがしたので、袖丈も短めです。
 しかし、ある説で、源氏物語の頃は、典型的ないわゆる十二単の完成されたような大仰な衣装の時代の少し前で、まださほど袖幅や着物のボリュームも大きくなかったのではないか・・・というのを読んだ気がするのですが、ゆったりしたセーブルコートの二枚重ねをした末摘花さんをイメージしてみました。

訶梨帝母(ハーリーティ)

鬼子母神

 訶梨帝母(かりていも)は仏教説話の夜叉の一人で、日本では鬼子母神として知られています。
 自身、500人の子供を持っていたのに、人間の子供をさらって食べるということから、釈迦に最愛の末子を隠され、諭されて母子を守護するようになったというのは有名です。以前鬼子母神として、この事典にも登場しています。
 しかし、古い時代には夫パーンチカ(散支夜叉)とともに、豊饒多産のカップルとしての像がパキスタンのタフテ・バヒーにあることから、ちょっと、古代ギリシャ風の(あるいはローマ風の)女神像として興味を持ちました。
 日本の鬼子母神は、手に吉祥果を持っているのですが、いつしかそれがざくろということになりました。ざくろは中に小さな種がたくさんつまっていることから、文字通り豊饒の象徴でしょうけれど、これを「人肉の味がする」なんて言い出したのは、ちょっとホラー仕立てかも。
 パキスタンのハーリーティーは手に「豊饒の角」を持っています。 これは、ざくろどころか、いろんな果物が満載です。
 夫を省いて描いてみました。衣装の色合いは、西洋の「豊饒の女神」が赤い衣をつけているものが多いような気がしましたし、ギリシャ彫像の彩色復元では、古代の女神像は、赤紫の濃いポルポラ染風のものが目に付いたので・・。

庭園の宮女

古代女官

 高松塚古墳の西壁女子が公開されていましたね。
 男子像については、以前触れました。
 この時代の宮廷女官たちの姿には、発見された当時も今も、驚きをもっています。
 大陸風の風俗とは少し違う、緩やかな上着にあっさりとした髪型。
 これが、そのまま、ゆったりした平安風俗につながるには、、むしろ大陸風のものより、無理のないスタイルだとも思われます。
 緑と池のある宮廷の庭で、古代風の宮女がいる・・というイメージで。
 高松塚の壁画では、衣装に文様や地織りがあるようには見えませんが、後世の唐衣など地模様のあるほうが華やかかな・・と。

ラッグとキャンピオン

ラッグとキャンピオン
 
 マージェリー・アーリンガムのミステリーシリーズ「キャンピオン氏の事件簿」を読んで、ここの個性的な主従を描きたくなりました。
 主人のアルバート・キャンピオンは、いわゆる颯爽とした名探偵ではありません。
 作者みずから「猛烈なまぬけづら」なんて言われるのって、どうかと思いますが、まあいささかたよりなげな人物なんでしょう。
 この間抜けづらの意味は、もしかしたら、彼のトレードマークたる角縁眼鏡(バッファロー・ホーン)にあるかもしれませんが・・。
 親友の警部との関係はまあまあで、ホームズみたいに偉そうにしていないから、気楽に使われているのかも・・。
 で、こんなちょっとのんびりした主人に仕えて、身の回りの世話をしているのが、いわゆるジーヴスのような「紳士おそば付き紳士」のバレットのマーガズフォンティン・ラッグ
 このラッグたるや、ジーヴスのような、お上品な態度と物言いで、教養あふれ、何でもそつなくこなす、従者の鏡のような男ではない。 元夜盗・・であるらしく、仮出所中に従者になったって・・・まあ、スネに着ず持つ身であるから、悪党には目端がきくのかもしれませんが、主人を主人と思っていないような横柄な物言いなんですが、自分としては従者のプライドもあるみたいですね。
 使用人仲間から、ある貴族の従者が、主人が朝食をとるあいだ、横で新聞を朗読するというのを聞いてきて、自分も始めるのですが、彼が読む記事は教養あふれるものではなくて、死亡通知だったりします。
 で、気楽なあまり、つい主人をファーストネームで呼んでみたり、チンピラ風の言葉で文句を垂れる。うっかりすれば主人の後ろで、頭の上でクルクルパーとかやってそうな人物ですけれど、そこはそれ、なかなか息のあった主従なんです。
 このミステリーシリーズについては、こっちにも書いています。

元禄の少年

緑の若衆

 元禄の頃・・・といえば、華麗な江戸文化の始まりです。
 華やかな時代というイメージですが、衣装も華やかで、遊楽図や屏風などにも、ことされ華麗な衣装を描くものがあります。
 古い時代の小袖なども素晴らしい文様がありますが、華やかだからといって、必ずしも女性用ではなかったのではないか・・と思っています。
 絵画などに描かれる若衆が、とても華麗な振袖を着ていたりしますから。
 そのような風俗図から、振袖姿の若衆を描いてみました。
 豪華な松皮菱の縁取りでの亀甲の文様と黒地がマッチしていましたので。裾周りは州浜風に茶色の色彩が見えているので、また違った文様があるのでしょうね。

俊徳丸

俊徳丸

 中世の説教節の物語の一つで、「小栗判官」とよく似た、信仰による病気平癒の物語です。
 大阪には俊徳道という道路があり、彼が通った道ということになっていますが、四天王寺の信仰と深いつながりがあり、謡曲の「弱法師」も俊徳丸の物語で、伝説の成立はかなり古いかもしれません。
 長者の家の子供でありながら、後妻に入った継母に呪いをかけられて、盲目になり業病におかされて、家を出され、、乞食の集団に入って物乞いをしている・・という話ですが、謡曲の「弱法師」では、継母は登場しません。人の讒言にあって家を出て、盲目となっているという設定です。
 四天王寺の法要に物乞いに現われ、「日想観」をして、栄光に満ちた昔の時代を思い出し、物狂いをするというストーリーです。
 四天王寺は、今でこそ、町中にありますが、もともと夕日を見るための場所・・というか、西方浄土を想起しながら夕日を拝む「日想観」の信仰のあった場所なので・・(実際に、この法要は今、復活しているらしいのですが、見たことはありません)、春分と秋分には、鳥居の間に夕日が沈むのが見られるそうです。
 ということで、弱法師のスタイルで、夕日を背負ってみました・・。あ・・実際は夕日に向かうので、逆なんですけどね。
 

タナカー・ブヒクロサン(フレデリック・ブレックマン)

タナカー・ブヒクロサン

 幕末に来日した外国人の、山師的な人物の典型とみなされそうですが、彼なりに、なかなかの経歴。
 アムステルダム生まれのオランダ人で、かなり若い10代の頃に、植民地のバダビアに夢を求めて出かけ、そこで何をしていたかはわかりませんが、20歳の頃、日本の長崎に現われます。
 英国総領事のオールコックに通訳として雇われ、後にフランス公使館でも通訳になり、幕府の池田使節団の随員としてパリに向かいます。この時、一行の中にいた日本女性は、もしかしたら、彼の「妻」だったかもしれないそうです。
 再び日本に舞い戻り、色んな商売を手掛け、当時、海外で日本の軽業師などが人気であったので、そういった芸人一座に加わり、自分も日本人のマネをして、手品などをやっていたらしい。その時に、妻は踊り子として舞台に立っていたそうなので、元は芸妓ででもあったのでしょうか。
 ロンドンに流れ着き、そこでタナカー・ブヒクロサンと名乗り、日本人を数十人引き連れて、日本人村を開設。
 ここでは、日本の家屋を建て、工芸品等を実演販売。茶屋を立てて、茶菓の接待を女性にやらせる。劇場を設けてそこで芝居や手品、軽業などを演じさせ、相撲や剣の立会まで見せたそうですから、一大アトラクションつきのテーマパークですね。
詳しくは、こちらにも書いています。→タナカー・ブヒクロサン

春の月の宮女

月夜の宮女

春のおぼろ月は、桜の花と合わせると神秘的です。
嵯峨天皇の宮中に仕える宮女・・という感じで、平安初期頃のイメージで描いてみました。

桜のおとめ

さくら

 大阪の桜開花予想は明日かあさってくらいだそうです。
 近くでは、もう咲いているのかなあ?
 入学式なども、来週のようですが、まだ寒いですね。
 桜が咲いても、なんだか物悲しく、散り始めたら、更に切ない・・というのは寧ろ、近代の感傷かもしれませんが。
イメージは中古の少女で・・。

有職雛の女雛

雛

 明治時代初めころの有職雛の女雛です。
 男雛も顔立ちは童形で作られていますが、衣装は狩衣に立烏帽子。
 女雛は、袿(うちぎ)姿。紫の小袖に緋の袴。髪型はおすべらかしながら、前髪を垂らして、可愛らしく作ってありました。
 季節はずれですが、旧暦では・・・というか関西では、4月まで雛祭りですので・・。

マスグレーブ家の執事ブラントン

ブラントン

 シャーロック・ホームズシリーズの「マスグレーヴ家の儀式」という物語の登場人物です。
 設定はホームズが大学時代の友人から相談事を受けるということになっています。
 その人物は、歴史的な旧家で、人が住んでいる家としてはこの国最古だろう・・と言われるほどの古い屋敷というか城に住んでいる当主。で、彼の屋敷の執事が、不可解な行動の後に、忽然と姿を消した・・というもの。
 そして、姿を消す前に、屋敷の図書室で、深夜に何かを熱心に調べていた・・・というのですが、それが謎。
 で、 謎を解くのはもっぱら探偵ではあるのですが、おそらく、その謎を、執事が解いていた・・そしてそれこそが失踪の理由・・というものです。
 その謎が、旧家に伝わる成人式の儀式書ですが、とある歴史的な財宝の隠し場所・・・というもの。
 シドニー・パジェットの挿絵ではなにやら熱心に調べ物をしている挿絵があるのですが、せっかく図書室(旧家の図書室すごいですよね)にいるのだから、なにか参考資料を色々出して調べていたに違いないと私は思うので、そんなふうに描いてみました。
 あ・・・ロンドンのホームズ博物館に、知る人ぞ知る、この執事の「死体」があるらしいのですが、頭脳明晰、容姿端麗のはずのブラントンさんにしては、なんだか気の毒すぎる「姿」なので、知的な雰囲気にしてみました。
 ちなみに、神戸の異人館の英国館にも、この「執事の死体発見場面」の、発見者側の人形があるらしいです。そのうち見に行ってみよう。 

桜惜しむひと

桜

 まだ桜は咲いていませんが、どうやら、春は、かなり近くまできている気配・・。
 桜吹雪が舞い散る日も、そう遠くないだろう・・と、こういうイメージがわきました。
 とくに誰と特定しているわけでもありませんので、桜を惜しむひと・・ということで。
 なにか歌でも詠みそうでしょう?
 早く桜が咲く春になってほしいです。
プロフィール

乱読F

Author:乱読F
歴史上の人物を沢山描きたい・・。
実在・架空2000人描き

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