考古学者たち

考古学者たち・・?

 考古学者と聞いてほとんどの人が、「インディ・ジョーンズ」を思い出していたのは、一昔もふた昔も前のことです。
 今だとどんなイメージでしょうねえ。
 このクソあついのに、現場をやっている方々はくれぐれも熱中症に注意して下さいませ・・・。
 また、ヒアリやマダニといった生物脅威もあります。温暖化時代には、アウトドア学問はますます大変になるだろうなあ・・。
 ちょっと昔では、考古学者イコール宝探し的なイメージがあったので、未開の地に埋もれたほろんだ王宮跡だとか、墓堀だとか・・・そういった関連で、「探検家」のイメージ。
 と言うことで、昔描いていたインディー・ジョーンズに、新聞で見たお髭の考古学者(割合最近の方です)、それと戦前の探検隊みたいな発掘調査隊の人の写真から描いてみました。
 熱い時に、暑い絵・・すみませんねえ。
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末摘花

末摘花

 末摘花は源氏物語に登場する女性の中で、一番の不美人として表現される気の毒な人です。
 けれど、常陸宮の御姫様で、高貴な身分の人です。
 そして何と言っても毛皮の女王です。
 この言い方はちょっとヘンかもしれませんが、宮様の姫君なので、「女王」なんですし、父宮から持っておられるという超高級品の黒貂の毛皮・・つまりセーブルコートを持っておられる。
 黒貂のコートは古代日本にあって、高級な衣装で、「黒貂之裘」(こくちょうのきゅう)というと、大宮人の憧れだった。
 古代日本人も、奈良時代から盛んに輸入し、渤海や、あるいは蝦夷地のほうからまで買付していた可能性があるんですね。
 末摘花が、毛皮を着ているということから、奇抜な衣装として、奇怪?な容貌とあいまって、笑いものにしているのは、紫式部も人が悪いなあと思うわけですが、古風であり、変り者というのを、一昔前に流行った黒貂のコートというアイテムを持ってくることで、際立たせていると思います。
 で、この女王の毛皮はいったいどのようなスタイルだったのか・・・これについては、よくわからない・・・。
 なにしろ、平安時代の毛皮のコートが実在しているわけでもないし、絵画資料も残っていない・・。
 ですけれど、有名な話ですが、醍醐天皇の皇子重明親王が、この毛皮を8枚も重ね着していたという記事があるのですが、いくらなんでも、8枚も毛皮を重ねられるだろうか・・?
 八重の毛皮というような意味で、何枚も着ていたよという誇張の、8という数字かも知れないのですが、重ね着をすることがあったということですね。
 古代においては、黒貂之裘・・つまり裘(かわごろも)は、裾を引きずるような長いものと、丈の短いものがあったようなのですね。
 錦を裏地に使う・・あるいは内側に毛皮を貼るという二つの方法があるので、ちょっと、冗談に、内側に毛皮を貼った丈の短いものと、裏側を錦で裏打ちした丈の長いものとを重ねてみました。
 スタイルとしては、唐衣などのように裏地を折り返して着るというのがふさわしいような感じがしたので、袖丈も短めです。
 しかし、ある説で、源氏物語の頃は、典型的ないわゆる十二単の完成されたような大仰な衣装の時代の少し前で、まださほど袖幅や着物のボリュームも大きくなかったのではないか・・・というのを読んだ気がするのですが、ゆったりしたセーブルコートの二枚重ねをした末摘花さんをイメージしてみました。

訶梨帝母(ハーリーティ)

鬼子母神

 訶梨帝母(かりていも)は仏教説話の夜叉の一人で、日本では鬼子母神として知られています。
 自身、500人の子供を持っていたのに、人間の子供をさらって食べるということから、釈迦に最愛の末子を隠され、諭されて母子を守護するようになったというのは有名です。以前鬼子母神として、この事典にも登場しています。
 しかし、古い時代には夫パーンチカ(散支夜叉)とともに、豊饒多産のカップルとしての像がパキスタンのタフテ・バヒーにあることから、ちょっと、古代ギリシャ風の(あるいはローマ風の)女神像として興味を持ちました。
 日本の鬼子母神は、手に吉祥果を持っているのですが、いつしかそれがざくろということになりました。ざくろは中に小さな種がたくさんつまっていることから、文字通り豊饒の象徴でしょうけれど、これを「人肉の味がする」なんて言い出したのは、ちょっとホラー仕立てかも。
 パキスタンのハーリーティーは手に「豊饒の角」を持っています。 これは、ざくろどころか、いろんな果物が満載です。
 夫を省いて描いてみました。衣装の色合いは、西洋の「豊饒の女神」が赤い衣をつけているものが多いような気がしましたし、ギリシャ彫像の彩色復元では、古代の女神像は、赤紫の濃いポルポラ染風のものが目に付いたので・・。

庭園の宮女

古代女官

 高松塚古墳の西壁女子が公開されていましたね。
 男子像については、以前触れました。
 この時代の宮廷女官たちの姿には、発見された当時も今も、驚きをもっています。
 大陸風の風俗とは少し違う、緩やかな上着にあっさりとした髪型。
 これが、そのまま、ゆったりした平安風俗につながるには、、むしろ大陸風のものより、無理のないスタイルだとも思われます。
 緑と池のある宮廷の庭で、古代風の宮女がいる・・というイメージで。
 高松塚の壁画では、衣装に文様や地織りがあるようには見えませんが、後世の唐衣など地模様のあるほうが華やかかな・・と。

ラッグとキャンピオン

ラッグとキャンピオン
 
 マージェリー・アーリンガムのミステリーシリーズ「キャンピオン氏の事件簿」を読んで、ここの個性的な主従を描きたくなりました。
 主人のアルバート・キャンピオンは、いわゆる颯爽とした名探偵ではありません。
 作者みずから「猛烈なまぬけづら」なんて言われるのって、どうかと思いますが、まあいささかたよりなげな人物なんでしょう。
 この間抜けづらの意味は、もしかしたら、彼のトレードマークたる角縁眼鏡(バッファロー・ホーン)にあるかもしれませんが・・。
 親友の警部との関係はまあまあで、ホームズみたいに偉そうにしていないから、気楽に使われているのかも・・。
 で、こんなちょっとのんびりした主人に仕えて、身の回りの世話をしているのが、いわゆるジーヴスのような「紳士おそば付き紳士」のバレットのマーガズフォンティン・ラッグ
 このラッグたるや、ジーヴスのような、お上品な態度と物言いで、教養あふれ、何でもそつなくこなす、従者の鏡のような男ではない。 元夜盗・・であるらしく、仮出所中に従者になったって・・・まあ、スネに着ず持つ身であるから、悪党には目端がきくのかもしれませんが、主人を主人と思っていないような横柄な物言いなんですが、自分としては従者のプライドもあるみたいですね。
 使用人仲間から、ある貴族の従者が、主人が朝食をとるあいだ、横で新聞を朗読するというのを聞いてきて、自分も始めるのですが、彼が読む記事は教養あふれるものではなくて、死亡通知だったりします。
 で、気楽なあまり、つい主人をファーストネームで呼んでみたり、チンピラ風の言葉で文句を垂れる。うっかりすれば主人の後ろで、頭の上でクルクルパーとかやってそうな人物ですけれど、そこはそれ、なかなか息のあった主従なんです。
 このミステリーシリーズについては、こっちにも書いています。

元禄の少年

緑の若衆

 元禄の頃・・・といえば、華麗な江戸文化の始まりです。
 華やかな時代というイメージですが、衣装も華やかで、遊楽図や屏風などにも、ことされ華麗な衣装を描くものがあります。
 古い時代の小袖なども素晴らしい文様がありますが、華やかだからといって、必ずしも女性用ではなかったのではないか・・と思っています。
 絵画などに描かれる若衆が、とても華麗な振袖を着ていたりしますから。
 そのような風俗図から、振袖姿の若衆を描いてみました。
 豪華な松皮菱の縁取りでの亀甲の文様と黒地がマッチしていましたので。裾周りは州浜風に茶色の色彩が見えているので、また違った文様があるのでしょうね。

俊徳丸

俊徳丸

 中世の説教節の物語の一つで、「小栗判官」とよく似た、信仰による病気平癒の物語です。
 大阪には俊徳道という道路があり、彼が通った道ということになっていますが、四天王寺の信仰と深いつながりがあり、謡曲の「弱法師」も俊徳丸の物語で、伝説の成立はかなり古いかもしれません。
 長者の家の子供でありながら、後妻に入った継母に呪いをかけられて、盲目になり業病におかされて、家を出され、、乞食の集団に入って物乞いをしている・・という話ですが、謡曲の「弱法師」では、継母は登場しません。人の讒言にあって家を出て、盲目となっているという設定です。
 四天王寺の法要に物乞いに現われ、「日想観」をして、栄光に満ちた昔の時代を思い出し、物狂いをするというストーリーです。
 四天王寺は、今でこそ、町中にありますが、もともと夕日を見るための場所・・というか、西方浄土を想起しながら夕日を拝む「日想観」の信仰のあった場所なので・・(実際に、この法要は今、復活しているらしいのですが、見たことはありません)、春分と秋分には、鳥居の間に夕日が沈むのが見られるそうです。
 ということで、弱法師のスタイルで、夕日を背負ってみました・・。あ・・実際は夕日に向かうので、逆なんですけどね。
 

タナカー・ブヒクロサン(フレデリック・ブレックマン)

タナカー・ブヒクロサン

 幕末に来日した外国人の、山師的な人物の典型とみなされそうですが、彼なりに、なかなかの経歴。
 アムステルダム生まれのオランダ人で、かなり若い10代の頃に、植民地のバダビアに夢を求めて出かけ、そこで何をしていたかはわかりませんが、20歳の頃、日本の長崎に現われます。
 英国総領事のオールコックに通訳として雇われ、後にフランス公使館でも通訳になり、幕府の池田使節団の随員としてパリに向かいます。この時、一行の中にいた日本女性は、もしかしたら、彼の「妻」だったかもしれないそうです。
 再び日本に舞い戻り、色んな商売を手掛け、当時、海外で日本の軽業師などが人気であったので、そういった芸人一座に加わり、自分も日本人のマネをして、手品などをやっていたらしい。その時に、妻は踊り子として舞台に立っていたそうなので、元は芸妓ででもあったのでしょうか。
 ロンドンに流れ着き、そこでタナカー・ブヒクロサンと名乗り、日本人を数十人引き連れて、日本人村を開設。
 ここでは、日本の家屋を建て、工芸品等を実演販売。茶屋を立てて、茶菓の接待を女性にやらせる。劇場を設けてそこで芝居や手品、軽業などを演じさせ、相撲や剣の立会まで見せたそうですから、一大アトラクションつきのテーマパークですね。
詳しくは、こちらにも書いています。→タナカー・ブヒクロサン

春の月の宮女

月夜の宮女

春のおぼろ月は、桜の花と合わせると神秘的です。
嵯峨天皇の宮中に仕える宮女・・という感じで、平安初期頃のイメージで描いてみました。

桜のおとめ

さくら

 大阪の桜開花予想は明日かあさってくらいだそうです。
 近くでは、もう咲いているのかなあ?
 入学式なども、来週のようですが、まだ寒いですね。
 桜が咲いても、なんだか物悲しく、散り始めたら、更に切ない・・というのは寧ろ、近代の感傷かもしれませんが。
イメージは中古の少女で・・。

有職雛の女雛

雛

 明治時代初めころの有職雛の女雛です。
 男雛も顔立ちは童形で作られていますが、衣装は狩衣に立烏帽子。
 女雛は、袿(うちぎ)姿。紫の小袖に緋の袴。髪型はおすべらかしながら、前髪を垂らして、可愛らしく作ってありました。
 季節はずれですが、旧暦では・・・というか関西では、4月まで雛祭りですので・・。

マスグレーブ家の執事ブラントン

ブラントン

 シャーロック・ホームズシリーズの「マスグレーヴ家の儀式」という物語の登場人物です。
 設定はホームズが大学時代の友人から相談事を受けるということになっています。
 その人物は、歴史的な旧家で、人が住んでいる家としてはこの国最古だろう・・と言われるほどの古い屋敷というか城に住んでいる当主。で、彼の屋敷の執事が、不可解な行動の後に、忽然と姿を消した・・というもの。
 そして、姿を消す前に、屋敷の図書室で、深夜に何かを熱心に調べていた・・・というのですが、それが謎。
 で、 謎を解くのはもっぱら探偵ではあるのですが、おそらく、その謎を、執事が解いていた・・そしてそれこそが失踪の理由・・というものです。
 その謎が、旧家に伝わる成人式の儀式書ですが、とある歴史的な財宝の隠し場所・・・というもの。
 シドニー・パジェットの挿絵ではなにやら熱心に調べ物をしている挿絵があるのですが、せっかく図書室(旧家の図書室すごいですよね)にいるのだから、なにか参考資料を色々出して調べていたに違いないと私は思うので、そんなふうに描いてみました。
 あ・・・ロンドンのホームズ博物館に、知る人ぞ知る、この執事の「死体」があるらしいのですが、頭脳明晰、容姿端麗のはずのブラントンさんにしては、なんだか気の毒すぎる「姿」なので、知的な雰囲気にしてみました。
 ちなみに、神戸の異人館の英国館にも、この「執事の死体発見場面」の、発見者側の人形があるらしいです。そのうち見に行ってみよう。 

桜惜しむひと

桜

 まだ桜は咲いていませんが、どうやら、春は、かなり近くまできている気配・・。
 桜吹雪が舞い散る日も、そう遠くないだろう・・と、こういうイメージがわきました。
 とくに誰と特定しているわけでもありませんので、桜を惜しむひと・・ということで。
 なにか歌でも詠みそうでしょう?
 早く桜が咲く春になってほしいです。

指輪をした女

指輪の女

 日本の写真家の草分けは上野彦馬ですけれど、もう一人、下岡蓮杖がいます。
 この下岡蓮杖が、江戸のごく末か、明治の初年に撮った写真で、一人の女性が座っているのがあります。
 長い黒髪を、髪を後ろでまとめてくるっと回し、鹿の子で縛ってかんざしを一つ刺している簡単な髪型が印象的ですが、左手に指輪をはめているのです。
 シンプルな指輪ですが、左手薬指に一本だけ・・・なんだか、質素な生活をやりくりしている主婦みたいな感じです。
 しかし、当時だと、かなり進んだ装身具だったでしょうねえ。レトロな写真だと、色合いがわからないのですが、着物も帯も縞模様なのは、おしゃれなおねえさんだったかも。
 顔は、私風に。色合いは勿論みんな想像ですが、手をつくテーブルにかけた布は春らしく桜模様にしてみました。

聖セバスティアヌス(着衣)

聖セヴァスティアヌス2

 聖セヴァスティアヌスといえば、もうすでに一度出しましたが、裸で縛られて体中に矢が突き刺さった(矢の数や刺さっている場所は注文主や画家の好み?)スタイルで描くのが当たり前になっていますが、カルロ・クリヴェッリの描く聖母祭壇画の聖人は、ちゃんと服を着ています。
 それだけでなく、当時のヴェネツィアあたりの洒落者の若者と同じような豪華で美々しい衣装。手には矢をもち、弓を足元に置いて、剣を佩いているので、武人としての正装スタイルなのでしょう。
 きれいに切りそろえられた前髪に、櫛目もバッチリのヘアスタイルに真珠の髪飾りという「おしゃれ」?なこの聖人が珍しかったので。
 顔立ちは若干私風にアレンジです。

薄絹のビーナス



 ビーナスといえば、ギリシャ・ローマの神話の女神とは言いながら、古来より、最も彫像や絵画に取り上げられてきた女性像に命名されるものです。(アフロディティとして以前に描いたものと同じようなポーズを改変して着色してみたものです)
 ルネサンス時代からも、裸の女性を描くのに好都合なのは神話の女神を名目にするのが画家やその注文主の常套手段。
 もっと下った時代でも、やはり裸婦を描く口実にされました。
 先日、クラーナハ展―500年後の誘惑ーを見てまいりまして、クラナッハ風ではないけれど、真っ黒の背景に女性の裸身を描いて、かたちばかりの薄い透き通った布で覆った・・ということにする・・・というのをやってみたくなりまして・・・。
 と言っても、クラナッハの作品のように、紳士の部屋で魅惑的な女性像をこっそりと、お仲間で観賞する・・・というような目的ではないので、薄い布のスケスケ具合はやや控えめに。でも、布があるほうが、真っ裸より「イミシン」でしょう?

自転車に乗る男

ツィードラン

 ツィードを着て自転車で走るというイベント「ツィードラン」の画僧を見ていて、思いついた。
 20世紀初頭の英国調スポーツウェアーのニッカーボッカーは、クラシカルな自転車に似合うなあ・・と。
  しかし、自転車が、そもそもどこで発明されたのか・・ということについては、ドイツだ、英国だ、いやフランスだと、それぞれの国が発祥の地を表明しているとか。
 しかしもともと、子供の玩具の木馬に車を付けて、それにまたがって足でけりながら進んだ遊具だったとか。
 1813年にドイツで、ドライス男爵が、こういった木馬風のものに、本格的なハンドルをつけ、進行方向を決められ、足蹴りで進んだものが発明され、それが、今日の自転車の始まりとされているそうです。
 そしてペダルが発明されたのは、1839年で、スコットランドの鍛冶屋さんが工夫したそうです。
 以後、様々な工夫を経て、1879年にイギリスで、前後のギアをチェーンで結ぶ駆動方式が発明され、今日の自転車の基礎ができました。

「非常並旅行服」の男

旅行服

 明治維新は、王政復古し、いよいよこれから新しい日本を作るべく断行されました。
 しかし、新政府は、いわば色んな身分がごちゃまぜで、天皇に近い公家もいれば、貧乏公家もあり、武家にしたって、大名もあれば、弱小殿さま、下級武士、はたまた軍籍に身を置く元農民など、さまざまな身分がごちゃまぜ。
 そして、天皇を中心として政治をするといっても、集まった連中が、それぞれ服装がバラバラ。
 天皇に拝謁を願うには、衣冠束帯でなければならない、百歩譲って狩衣烏帽子と主張する貴族がいると思えば、大名などは大紋直垂でよいではないかというし、中流以下の武士階級の出身者は、直垂なんぞ持ってないし、豪農や、豪商では黒紋付きの羽織袴が正装で参内させてほしいという。
 いかにも見ただけで寄せ集め政府の感があるし、現に明治初年のある集合写真では、狩衣烏帽子の公家のとなりに直垂姿の上級武士がおり、洋装の外人、羽織袴の下級武士、洋装で蝶ネクタイ断髪の(洋行帰り?)日本人、チョンマゲ軍服の兵士などが並んでいます。
 これはいかんぜよ!ということで、早急に「官服」の制定が叫ばれましたが、とにかく、シッチャカメッチャカで全然決まらない。
 古式ゆかしくしたい公家方は、衣冠束帯だの狩衣だのと公家衣装にこだわり、実際に武士にもこの格好をさせると、下級武士は烏帽子など慣れないし、袖の大きなのも難儀で、とても閉口したらしい。
 第一、外国人からみたら「エキゾチック」なこの衣装はヘンだよ・・というのは洋行帰りの日本人たち。
 とりあえずは、各藩で勝手に洋装になっていた軍服から統一を図り、一般官吏にも、「非常並旅行服」というものが、明治3年に制定された。絵図によると、黒羅紗の詰襟で、金釦、紫の組紐の肩章がつき、袖の装飾で身分が決まっていたらしい。
 これは、「旅行」というのは、国内ではなく、海外に出張するときに、和装では不便であろうということで、やや軍装よりのスタイル。 のちの話になりますが、岩倉使節団が出発するときに、三条実美が「おくる言葉」の中で述べた、
  万里馳駆 英名を四方に宣揚する
 という気概を持って洋装した明治官人のユニフォームとして考案された。。
 
 それの絵図をもとに復元してみました。
 明治の服制についてはこちらにも書いています。

明治の貴婦人

明治の貴婦人

 明治時代の女性の正装「白襟紋付」姿の女性。
 鹿鳴館時代に、女性の参加が少なくて悩んだ政府は、洋装でなくてもよいと規制を緩めると、こういった紋付姿の女性の参加が増えたそうです。海外に留学していたことのある女性ならともかく、当時の日本人の女性は、身分の高い人でも、身体の線のあらわな洋装は二の足を踏んだことでしょう。
 明治のころの着物は地味で、地色は鼠や納戸色といった緑がかったグレーのようなのが流行ったのですが、裾模様も、ほんの少し裾周りに散らすといった、今から見ればかなりシブイ模様でした。
 輸入染料が入ってきて鮮やかな色合いが染められるようになって、だんだん色合いも華やかになり、大正ロマン、昭和モダンと言われる華麗な着物が登場してきました。
 女性の正装「白襟紋付」についてはこちらに少し書いています。

明正天皇

明正天皇

 奈良時代以、絶えていた久々の女性天皇は、寛永6年にわずか7歳で即位しました。
 即位の事情は、いろいろあって、父親である後水尾天皇の幕府に対するいわば「反抗」のため・・といえばいいのでしょうか。
 これまでの・・といっても860年ぶりですが、大人であった女帝と違って、幼帝にして女性という立場です。
 生母は、徳川和子・・つまり、幕府の将軍であった徳川秀忠の娘ですから、徳川家の血を引いている(という意味では、和子の母はお江の方・・つまり淀殿の妹ですから、和子の祖母はお市の方で母方では織田家につらなる)。
 もし男子であれば、徳川家の血筋ということで、幕府だって大喜びのはずなんですが、徳川和子には生まれた皇子がすべて若死にするという不幸。
 ところが夫の御水尾天皇は徳川家の干渉をうるさく思っているうえに、秀忠が気に入らん・・・ということで、この幼い姫に突然皇位を譲る。まあ・・・「お前の孫を天皇にしてやったんだから文句は言うな・・」ってとこでしょうか。
 色々事情はあれ、女帝が誕生したのですから、儀式は滞りなく行わなければならない・・。
 ところが、女帝がたってからすでに800年以上たってしまって、どのような装束で即位式に臨めばよいかわからない・・。
 そこで、参考にされたのが正倉院で、正倉院に残っていた冠の断片から女帝の宝冠を復元し。礼服を作った。
 それが、どのようなものだったかはよく分かりませんが、残っている絵図などから、能の女神がかぶる天冠のようなもので、身に着ける装束は、古代から天皇の色とされる白で、筒袖の袍と大袖の上着が作られたようです。
 それらのものから、こんな感じではないかと・・・。
 真っ白の装束は、現在の宮中祭祀にも皇后陛下が着る純白の十二単のようなものと思われます。

ヴィクトリア朝の人々3



 ヴィクトリア朝を舞台にした小説やドラマには「お屋敷」が出てきます。
 貴族たちは、田舎の領地に広大なカントリーハウスを持ち、ロンドン社交界を楽しむために市内にはタウンハウスを持っていて、沢山の使用人に囲まれていました。
 そういった、使用人の中で「メイド」は、なにやら、ミョ~な流行り方をしているんですけどね(まあ、執事というのも、ややミョ~な感じですけど)。
 主人のために、晩餐会の給仕などの表立った働きから、下働きをしていた男性使用人を「図説 英国執事 貴族をささえる執事の素顔」(村上リコ・ふくろうの本)から、書いてみました。

 座乱読ー別荘ーで、「そこの執事さん」シリーズのマンガ描いてます。

ヴィクトリア朝の人々2

ヴィクトリア朝の人々2

 前回の続きです。
 これは1860年代以降の警官のヘルメット。胸のボタンに吊して、上着の下に突っ込んだ鎖には警笛がついています。上着の下から見えるのは、腰に下げた手錠。
 銀行員は中流階級の下層に属し、ジェントルマンのはしくれ。現代の背広につながるラウンジジャケットです。ズボンのセンターの折り目が入るようになるのは20世紀になってからです。
 農場のスカラリーで働く女性。
 帽子をかぶったのは一応は中流の外科医の夫人。

ヴィクトリア朝の人々

ヴィクトリア朝の人々

「ヴィクトリア時代の衣装と暮らし」(石井理恵子・村上リコ・新紀元社)。
 こちらでいえば明治村みたいなところで、復原されたヴィクトリア時代の街で、それぞれの職業人に扮している普通の人々のコスプレを集めた写真集。これが面白かった。
 本当にそのへんのおばちゃん、おっちゃんたちを、現代のおばちゃん、おっちゃんたちがやっているんです。
 衣装も、時代考証をして特別に制作しているんですが、なるべくその時代風のものを身に着けた人々の写真集。
 美人で気取った上等の衣装を着けた上流階級の貴婦人や、ビシっとした服装の貴族なんて、出てきません。
 印刷屋は上着を脱いで、黒い袖カバーとエプロン。でも、手はインクで汚れているのはちゃんと仕事してるから。
 鉄道整備員はズボンもベストも、元の色が何色だったかわからないくらい汚れているけれど、これは職業上のプライド。手にするスコップは、井上勝も持っていた。髭をそれば、けっこうハンサムかも・・?
 リッチフィールド伯爵家のキッチンメイドは赤の細いストライブの服に白いエプロン。
 ランドリーメイドは青、ハウスメイドは紫のストライブと決まっていたんだそう。エプロンだって、ごく普通の白いもの。  

祇園社の巫女

祇園祭の巫女

 現代の祇園祭には、稚児はいますが、巫女はいません。
 しかし、古来、祇園社に奉仕する巫女がいて、祇園御霊会の三台の神輿にもそれぞれ、神の声を聴く・・あるいは神と人の間の通訳たる巫女が付き従っていました。
 ですが、すでに洛中洛外図に描かれた祇園御霊会には巫女の姿はありませんが、年中行事絵巻(写本)には、この祇園社の巫女が描かれています。
 巫女とはいえ、神主の補助をするのではなく、そもそもは、神の声をじかに聞ける巫女のほうが地位は神主より上であったとも言われています。
 しかし、応仁の乱の後、ほとんど京都の古代的な秩序が覆り、祇園祭りにも巫女は参加しなくなります。
 年中行事絵巻に描かれた巫女は、唐衣裳の正装をして、馬に乗り、傘をさしかけられて扇を持ち、帖紙(たとう)をかざして堂々と進みます。絵巻には色彩がありませんが、色を付けてみました。
 祇園祭りの巫女については、こちらに書いています。

内田九一

内田九一

 年初は晴れ着を着て、写真館で写真をとる・・・。こういうのは、最近あまりききませんね。
 小学校の入学式、成人式くらいでしょうか? あとは結婚式。
 そういった肖像写真が始まったのは幕末明治。
 日本の明治の写真家の草分け的存在の写真師の一人に内田九一がいます。
 写真師といえば上野彦馬が有名ですが、内田九一は、長崎で写真術を学び、上野彦馬の弟弟子にあたります。
 しかし、彼自身の名前より、彼の撮った写真はとても有名。
 社会の歴史の教科書では、必ずおめにかかるかの、「明治天皇」の軍服姿の写真を撮ったのが内田九一です。
 そして、ちょっと詳しい歴史の教科書では出ている木戸光允の羽織袴にチョンマゲの写真。あれも、内田九一。 
 ほかにも、彼の被写体になった人たちは有名人が多い。
 そんな、売れっ子写真家であった内田ですが、あまりに忙しすぎたのか、写真師の仕事としては絶頂期であった明治8年に病死しています。彼の死後、妻のおうたが、大阪に戻って弟子と一緒に写真館を開業したそうですが、今も大阪には内田写真館ありますが、系譜はおなじでしょうか?
 彼の経歴や被写体の方がたについては、こちらの「座乱読無駄話日記」でちょっとふれています。
 

謹賀新年


 
 本年もどうぞよろしく。

福沢諭吉

福沢諭吉

 いまさらながら、お札にもなった有名人です。
 ただ、見慣れた着物姿でもなく、アメリカ女性と、ツーショットのチョンマゲ姿でもない洋服の福沢さん。
 慶応三年にアメリカから帰ってきたばっかりの福沢さんが、これからの時代は西洋だ!ってことで、西洋衣食住という本をだし、その中に、初めて洋服を、丁寧な絵入りで紹介しています。
  このころ、ご本人も西洋装束をして、西洋乗馬をしていたらしい・・ということで、洋服を着て乗馬ブーツをはいた写真があります。
 写真ですから、色は勿論わからないので、無難なところで無彩色にしてみました。
 撮影されたのは、浅草あたりにあった内田九一の写真館であろうと思われます・・というのも、この寄り掛かっている肘掛?が色んな人の写真に出てくるからです。
 この時代に写真を撮ろうと思ったら、限られた場所しかなかったのですから、どうしても同じ場所になり、その小道具や背景で、時代考証が出来るというのは面白いですねえ。
  この肘掛と背景の壁は色んな有名人の背景となっています。
 内田九一については、また次の機会に。
 
 で、諭吉さんとその洋服などについては、こちらの無駄話日記にちょっと書いています

 こちらもよろしく。

   座乱読無駄話日記
   座乱読ー別荘ー (こちらはほぼ毎日更新を目指しています)

鷹匠

鷹匠

 大津絵の鷹匠です。「藤娘」と並んで、人気の絵だったそうです。
 藤娘が若い女性なら、鷹匠は、少年の姿をしています。
 「大津絵」のシンプルな絵柄ではなく、同じ姿で、私風で。
 長い羽織を着ていますが、浮世絵の少年の「鷹匠」などでは、紋所のはいったものもあります。
 現代の鷹匠は、野羽織にゲートル、地下足袋にハンチングをかぶっているのは、明治になってから復活した姿だそうです。

天使と悪魔

天使と悪魔

 今までかかって、旧座乱読跡乱駄夢人名事典が移転し終わりました。
 これからは、新規の投稿になります。
 今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。
 
 さて、今回の「天使と悪魔]は、ロレンツォ・ロットの絵に描かれた、あからさまに悪魔っぽくない悪魔の絵を見て、触発された・・とでもいえるものです。
 その記事は、こちらの日記に書きました。
 良い天使と悪い天使の対比から、やがて悪魔が生まれた・・というようなことです。
 で、同じ顔で、色合いと上下をさかさまにしてみた絵を描いてみました。

  座乱読無駄話日記 は不定期雑文日記です。

  座乱読ー別荘ー  は、毎日更新をこころがけているラクガキです。
                いまのところ「そこの執事さん」というシリーズをやっています。
 
 こちらもどうぞ、よろしくお願いします。

末弘ヒロ子

末弘ヒロ子

 なんとも、あんまりひねりのない名前というか、素直すぎる感じがします。
 しかし明治の世の中では、女性は結婚すると姓がかわるので、せめて実家の姓の一部でも残しておこうかというつもりだったのか・・?
 この人は、明治41年に行われた日本初のミスコンの第一位になった「美女」で、当人は全く知らぬ間に、姉婿が勝手に応募してしまい、日本一の美女になってしまったんです。
 それなら、今でも、友達とか兄弟がが勝手に応募してアイドルになったとか、そんな話はままありますが、なにしろ、明治時代のお嬢様だったから大騒ぎ。
 父親はお堅い警視庁務め。本人は、女子学習院中等科在籍の、16歳の現役の「女学生」。
 しかも、当時学習院の院長は乃木希典。カチカチの軍人です。
 本人には、全くそんなつもりもなかったのに、学校でも噂になり、とうとう退学処分にまで発展。
 学校に美少女アイドルがいたらこれこそ、学校の宣伝と喜ぶ現代とは大違い、気の毒ですねえ。
 おまけに、退学を命じた院長は、このままでは、家名に傷がついて気の毒だからと、彼女を結婚させようということになった。
 ちょっと待って! それはないよ!・・と今なら言うでしょう? 
 しかし、縁談を持ち込んだのが当の院長乃木大将だし、お相手は野津侯爵家の子息だったので、両親は大喜び。
 しかし、現当主の野津侯爵は病床にあって明日をも知れぬ様態なので、子息の結婚を急がせるという事情があったんですね。
 かくして、彼女は未来の侯爵夫人・・といえば恰好がつくかもしれませんが、こんなんで、本当によかったの? 
 こっちにもちょっと書いています。
2016-02-25
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Author:乱読F
歴史上の人物を沢山描きたい・・。
実在・架空2000人描き

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